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博物館五感論

濱田隆士
神奈川県立生命の星・地球博物館

はまだ・たかし

“もの”を展示・解説することが主務と位置づけられる博物館園は、必然的に社会的マジョリティである“健常人”による観覧を前提にした施設・手法・運営を無意識のうちに是認し、その充実に努力を傾けてきた。日本ならずとも、世界中おしなべての長年の傾向であったことは間違いない。

博物館近代化の一策としての映像多様化時代になると、この方向性は更に強まることとなり、ハード、ソフト共に開発に大きな努力が払われ続け、CGを含め今日の映像情報社会における博物館園のイメージが定着するまでに至ったという歴史と現実がある。

このような経緯の中にあって、映像偏重への危惧・批判的見解が全くなかったわけではない。(当、博物館検討シリーズIにおいて清野が指摘するように)物の形状・色彩・雰囲気を他に伝達するには、視覚情報のみでは本当の目的を達成できぬことは明白である。

博物館展示の真髄は実物との直接対面にある、とする主張は決して消えるものではなかろう。バーチャルリアリティやスーパーリアリティ体験の技法がいかに発達しようとも、実物を超えるものはあるまい。まして、ハンズ・オンの姿勢を積極的に採り入れるならば、実物、あるいは忠実なレプリカの果たす役割には他にかけがえはない。

一方、実物主義にも不十分性は多々含まれていよう。壊れ易いもの、触れられないもの、微小なもの、巨大過ぎるもの、過去の存在、可視化もできない内部構造など、相当な数にのぼる。CGの世界は、こうした不便性の解消には大きく貢献しているし、さまざまな可視化技術の発達もまた大きく評価できる。

人間の持つ感覚が、日常どれほどの効率で活用されているかは、非常に定着化し難いアイテムであるだけに、直感的な表現しかできないのが現実である。通常の博物館園での展示では、常識的な範囲で感覚に訴えるように仕掛けられているに過ぎず、特定の感覚を強調するのはむしろ特例といえよう。

物の展示における触感への配慮は、上述のような一般例に並ぶものではあるが、時にショウアップ要素として重視されることもある。恐竜展でのタッチカードの発行、水族館でのタッチプール開設、触れる彫刻展等がその好例であろう。触れることに意義を見出すのは、決して視覚障害者への配慮だけでないことは言うまでもなく、むしろ全ての人々に、触覚の支えるインパクトを感じていただくことを目的に掲げたユニバーサルな発想に基づいていることを指摘できよう。

植物園やハーブ園におけるフレグランスの小径やコーナーも、全く同様に、展示物の一つの特徴的な属性としての芳香を意識的に万人に向けて発信しているものである。動物園のそれぞれの動物小舎から発散される独特の“悪臭”も、実はそれらの動物特性を理解する上に極めて重要な要素といって過言でない。

博物館展示をヒトはどう見ているのか?

物を陳列し、ラベルで解説する、という博物館園の基本態勢は時代によらず不変であるといってよい。その規模や手法は急速に変化しているから、一見大変革のような印象を受け易いが、それはいわば修飾された場面といってよかろう。

しかしながら、展示を見る側の立場は知らず知らずのうちに大きな変革を経験していることも重視する必要がある。例えば、近代的水族館に特徴的な回遊型大水槽やトンネル水槽の出現は、相対的に展示生物と観覧人との立場を気付かぬうちに完全に逆転せしめているのである。

筆者の実体験として、アフリカのサバナでの夜明けの状態を記してみよう。白々と明けてきた八方が水平の大地平に感動している暇もなく、次なるショックが走った。野生生物を観に来たのに、気が付くと、様々な生物の大集団に見つめられていたのである。身勝手な人間の思い込みは完璧に打ち砕かれた。大自然に身を置いた時、私は実にちっぽけな存在であり、かつまた確実に自然に取り込まれたナチュラルな存在であり得たのである。まさに感動であった。

考えてみると、ダイビングで大きな魚群に囲まれた時も、水中カメラで魚影を追っている際、天地は全くなく、まさに宇宙遊泳のように自由になる一刻も、同様の“群れに囲まれる”一存在であることに気づく。愉しい世界である。

前述の大水槽やトンネル水槽は、演出としては大きく広く見せようとする心積もりであろうが、結果として来館者をダイバーの立場に近づけていることは確かであり、サバナでの体感を擬似的に味わうことができるような環境拡大であるといってよかろう。とりわけ、静止物と違って動く対象は、その場の大きさ、雰囲気の認識上に果たす役割が大きいことは言うまでもない。

ヒトは思い込みの激しい生物である。問題を一つ提起してみよう。

『博物館展示は誰が一番よく見てくれているだろうか?』という疑問である。もちろん、その道の専門家とか博物館・学会・研究関係者、という答えがあることは間違いない。博物館アイテムは一般向けに展示されているのであるから、その期待する来館者像は多様性に富み、一概にそれを把握することは難しいかもしれない。質問の形を少し変えてみよう。目の不自由な方に何とか展示を理解してもらいたい、という意向は、館関係者は殆ど誰もが抱いていて、さまざまな手法を用いてそれを具体化しようと努力しているに違いない。しかしながら、一般のいわゆる“健常者”に対してどれほどの努力を払ってより深い理解を、と願っているのであろう。 目が不自由でない人たちは、適当に見て行ってくれるのだから、特別のケアは要るまい、というのが通常の展示側の理解であろう。しかし、芝居の台詞ではないが、「はたまた、目開きとは不自由なものじゃのう!」という表現には鋭いものがあることを真摯に受け止める必要があろう。

極論を吐いてみよう。

「健常者はよく見ているか?」
ans. 「いや、ほとんど見ていないか、見方が浅い。」「集中力が足りない。」

「健常者は五感を十分に使っているか?」
ans. 「とんでもない。健常者の大方は五感感度の面からいうと、かなりひどい“欠陥者”だろう。」

いかがなものであろう。もし、このような局面が普遍的に成り立つとしたら、館側は何をどうすべきであろう?

遠隔地に住んでおられる一視覚障害者の方から、「お宅の博物館を是非観たい」とお便りをいただいた時には、関係した人は一種の感動を覚えたという経験がある。ハンズ・オンをポリシーとした当館にとって、“正しい観かた”をきっとしていただけると思ったからであるが、その方は、普通の博物館に対しても同じ想いで接しておられるのであろう、とも想像した。

目にさまざまな障害を持つ方々に実際に当館に来ていただいて、音声サービス等の実情について素直な意見をうかがったことがある。その結果、我々が悟ったのは、結論として、健常者の誰よりもしっかり“見て”くださった、という事実である。多少整理してみよう。

  1. とぎ澄まされた集中力
  2. 秀れた吸収力
  3. 豊かな想像力
  4. 高い体感度 
  5. 常に新しい出逢いの感動

の5つの点で、どうやっても“健常者”の方が劣っているという現実を認めざるを得ないのである。こうなると、一般人にも役立つ音声サービスシステムがあれば、視覚障害者の方は決して社会的弱者ではあり得ないのである。

論をより一般化して言うなら、体感学習とは、弱くなった健常者の五感を本来の鋭敏感覚にとり戻すことと、その上に成り立つ多面的・総合的な物の捉え方を学びとること、ということになるであろう。社会的に開かれた施設や環境の中で自らを開くこと、まさに開眼が期待される局面でなければなるまい。これに更に洞察力が加わるならば、そこに本当の心眼が開かれるということであろう。

多少増幅した表現かもしれないが、上記の5条件を考えると、目の不自由な方の熱心な姿勢からして、心眼がより早く開けるのは健常者ではない、という結論にもなる。言い古されたことかもしれないが、達人はこころで物を見る、ということにつながっているのであろう。

開かれた博物館への途

近代型博物館のあり方の一つの大きな特徴は、さまざまな程度・分野・方向で、“開かれた博物館”を目指していることであろう。博物館園の多様性が高いので、 この傾向を正確に解析することは今のところ非常に手間がかかることになる。

当、神奈川県立生命の星・地球博物館としても、この開かれた博物館を目指して、1995年3月に開館し、さまざまな試行・努力を重ねながら、ここに丸3年を経過した。その流れの中から、“開かれた博物館への途”の一例を描き出すことができれば、今後、自らへの大きな指針ともなると考え、ここにその要点を記してみることにした。

生命の星・地球博物館は約30年の横浜・馬車道での神奈川県立博物館時代を経、平成7年3月に自然史部門として小田原市入生田の地に8年間の準備を要した再編 整備の結果、新規にオープンした。地球環境問題が核戦力均衡時代の壊滅後、世界共通の最重要課題となった時期に当たり、地域博物館としては思い切ったネーミングに示される通りのポリシーで、地球理解に役立ってもらいたいとするものである。当館が掲げたキャッチに「つまり、ミニ地球ってことなんです」があり、そのような主旨を盛り込んである。新しい近代博物館の在り方を探りたいとし、

(1) 地域への目を大切にし、かつグローバルな視点を保つ
(2) 地球生物としての人類の生存環境を考える 
(3) 映像資料を駆使したダイナミック展示を試みる
(4) 触れて良く、写真を撮ってよい、博物館展示を心がける
(5) 開かれた博物館を目指す

の5方針を軸に運営努力を重ねることとなった。

いま少し詳しく、(5)の「開かれた」の意味や方策について、ほぼ経時的に説明を加えてみよう。

  1. 地域および地域活動に開かれた博物館   
  2. パブリックサービスの新しい視点として博物館活動の全てをそこに位置づける
  3. ハンズ・オンを重視し、併せて音声ガイドによる移動解説を実施するなど、解説サービスの技術的アシスト
  4. 文化的バリアフリーの方向を模索  
  5. 真のユニバーサル発想

この案件は、当初目の不自由な方への展示解説、という技術的なアプローチを中心に進められたが、本質を考えると「健常者という発想自身が大きなバリア」という結論になるべきであるとの認識に至った。

別の言葉で表現するならば、「こころの開放、こころの共有をめざして」の博物館運営ということになる。真のユニバーサル思想に相当するものと位置づけられよう。

いのちとこころの時代を迎える

21世紀は、地球環境問題の展開を軸に、地球人が自らの反省に立って、自らの環境対応策を効果的に打ち出しせるか否かの瀬戸際に立つ世紀になると予想される。地球環境問題の全ての根底にあるヒトの人口増大と直面せざるを得ない時代となるからである。

第一に、ヒトはこれまで生を尊び死を忌み嫌う社会慣習を成立させてきたから、その姿勢を改め「生と死を対等に考えよう」とするパラダイムの転換には大きな抵抗と長い時間が必要と思われる点を指摘できよう。

第二に、「地球生命体の生と死の尊厳は平等」という次のステップに踏み込む必要があるという点である。具体的には、人間中心の人間社会倫理と、環境倫理あるいは地球倫理と呼ばれるべき、ヒトの特性を外から眺めて判断する自然史社会でのルールとの矛盾解決という大仕事の存在を考えねばならない。

地球環境問題を解決しようとするならば、地球リズムを乱し、グローバル汚染を知らぬうちに文明化や科学の振興という錦の御族の許に進めてしまったヒトは、一度その一方的な視点を外し、我儘な姿勢を厳しく反省する地平に立ち戻らねばなるまい。ヒトはこれまで、その社会的生き様を他から批判されたことのない奇妙な地球生物であることに思いを至さねばなるまい。

地球理解は、個別の事象を正しく解明すると同時に、その複雑システムの挙動を総合的に捉えることが大切であり、現時点での科学の力量不足の認識と、その科学を頼りにした科学技術への過信状態からできるだけ早く脱却しなければならない。生命の星・地球の実態は限りなく奥深い。

21世紀は、まさに生命の星・地球理解の真価が技術的にも心理的、哲学的にも問われる世紀であり、身のまわりの世界でいえば、究極のところ「いのちとこころ」の時代であることこそが期待されねばならないのであろう。

[目次]博物館における視覚障害者への対応について―全国の主な博物館園のアンケート調査結果及び当館の事例―


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