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博物館のより良きバリアフリー施策を目指して

山本哲也
國學院大學文学部

やまもと・てつやユニバーサル・ミュージアムの「ユニバーサル」という言葉は様々な意味に捉えることができると思います。しょうがい者福祉の中では、バリアフリーという言葉が既に障壁・障害を前提とした言葉なので、ユニバーサル・デザインという言葉で対応していこうとする動きがあり、それとも共通するでしょう。しかし、厳然たるバリア(障壁)が存在する現在、私は今しばらくバリアフリーやノーマライゼーションという言葉で話を進めていきたいと思っています。

言葉の問題は極めて重要です。「障害者」や「健常者」という、区別する言葉を別の言葉に変えていこうという提言もあります。私は今のところ「障害者」の「差し障りがあって害がある」という「障害」の文字をひらがなに置き換え、「しょうがい者」と表記することにこだわっています(これは河東田博氏が提唱された内容を受けたものです)。

「弱者」という言葉も問題にすべきと思います。そこには無意識の差別が潜んでいるからです。しょうがい者のことを「弱者」と呼ぶ立場は、いわゆる健常者の優位性を暗に示すものに他ならないと思います。さまざまな規制や条件を受けて「弱者」となってしまう立場の人は存在すると思いますが、「しょうがい者=弱者」ではないはずです。

日本はこのように、無意識のうちにしょうがい者を特別な存在として扱ってきたように思います。必ずしも特別な存在ではないしょうがい者のそのしょうがいを、個性ととらえる考え方もあります。中途しょうがいという現実的問題もあり、私はしょうがいを全て個性として考えて良いものか疑問に思うこともありますので、絶対正しいとも考えませんが、今後様々な意味でしょうがい者観は変わっていくべきと考えます。

日本の「障害者観」

さらに日本の「障害者観」を考えてみます。

1981(昭和56)年の国際しょうがい者年以降、日本においてしょうがい者に対する関心は急激に高まり、バリアフリーという言葉も今では一般的となってきました。しかし、果たしてそれが正しい方向へと向かっているのでしょうか。

例えば、長野におけるオリンピックとパラリンピックとで説明してみると、意外と知られていないこととして、前者が文部省、後者が厚生省の管轄となっていたという事実が挙げられます。確かにパラリンピックは、最初はリハビリの意味が大きかったようですが、現在はもう一つのオリンピックとして、同等に考えられるスポーツの祭典として認識されているのであり、福祉施策として扱うべきものではありません。

また、点字図書館は1996年現在92館が存在し、そのうち74館が厚生省の認可館となっているそうです。つまり、一般に本を読むという行為と同じはずの、視覚しょうがい者が点字図書を読む行為は、社会教育の一環ではなく福祉施策を受けることになると言っても過言ではないのです。

つまり、しょうがい者だから福祉であるという考え方があり、そこには暗に「しょうがい者=弱者」という捉え方があるように思えてなりません。

残念ながら日本の「障害者観」というのは意外とそんな程度のものなのではないかと思うのです。このような考え方が払拭されなければ、いかにしょうがいを個性として捉え、ノーマライゼーションの理念を普及させようとしても無理なことでしょう。

「福祉」という言葉も安易に使われ過ぎているのかもしれません。「公共の福祉」という場合ならば、全ての人を対象とするものであり、正しい使い方と言えるでしょう。しかし、福祉というと、高齢者(老人)、しょうがい者、介護などというように理解されがちだと思います。それも必ずしも間違いではないのでしょうが、今一度これらの問題から改めて考えていく必要があると思います。

点字ブロックをめぐって

福祉国家への道を歩んでいるようにも見える日本の現実について、点字ブロック(正式名称・視覚障害者誘導用ブロック)を例に考えてみましょう。

現在、点字ブロックを敷設している場合は多々見られますが、その種類や敷設方法は多種多様です。美観を損ねると言って、周囲と同色か、または同系統の色のブロックを敷設しているところがあります。これは博物館に限ったことではなく、全国様々なところで見られる現象です。しかし、点字ブロックというのは全盲の方のためだけではなく、視覚しょうがい者の約8割と言われるいわゆる弱視者のために、判別の容易な黄色が良いと言われています。わずか5ミリの突起というのは高齢者などがつまずく恐れがあったり、車椅子にとっても不便な場合があり、それを容易に避けられるということからも周囲とは差のある色にすべきであると考えられ、つまり弱視者のためだけではなく多くの人にとって黄色が有効と考えられるのです。それをいわゆる晴眼者にとっての美観のみを主張するのでは、本当の美観は得られないと考えます。そのため、故意に黄色を避け、周囲と同色にするような行為のことを、私は「心の美観」を損ねるものと言っているのです。見た目の状態のみが美観ではないはずです。

そのような状態が続くようでは、日本人(三宅精一氏)の発明であり、世界に誇れるはずの点字ブロックもその意義が半減してしまうことを考えなければならないと思います。

また、有名建築家が設計したという博物館の場合で、それが一つの作品であると考えられるがために、階段に手すりを設置することを拒否した建築家がいるとも聞き及んでいます。建物はそれを使う人々にとって優しいものでなければ、目に見える姿がどんなに美しくても、心ない建築家として心の冷たさのみが感じられることでしょう。まさに「心の美観」を損ねるものと思うのです。

博物館におけるバリアフリー施策とは

「バリアフリー」という言葉は、1974年に建築用語として使われたものが普及したと言われており、つまりハード面整備に関する上での使用でした。最近では『障害者白書平成7年版─バリアフリー社会をめざして─』などで挙げられる通り、その障壁(バリア)とは、物理的障壁、制度上の障壁、文化・情報面の障壁、意識上の障壁の四つに分けて考えられています。私も以前にそれら四つの障壁という視点で、博物館におけるバリアフリー施策を考えたことがあります。紙数の都合でそれら全てをここで述べられませんが、その施策についていくつか挙げてみたいと思います。

博物館の重要な機能の一つが展示であることは言うまでもないことでしょうが、その博物館において最も考えるべき障壁は、三番目に挙げた文化・情報面の障壁となるでしょう。これまで博物館では視聴覚という二つの感覚、特に前者の視覚に頼る展示が主であると言っても過言ではないと思います。つまり視覚しょうがい者にとって、いかに不都合を生じていたかを知る必要があります。それだけではなく、聴覚しょうがい者や肢体不自由者などしょうがい者と呼ばれてしまう人々にとって、博物館は必ずしも優しい施設ではなかったと思います。そのためのバリアフリー施策として、色々な感覚にうったえる展示の今後の発展が望まれます。

人間の感覚は、いわゆる五感という五つの感覚を持つと一般には言っておりますが、実際は視覚・聴覚・味覚・嗅覚・皮膚感覚・運動感覚・内臓感覚・平衡感覚があり、皮膚感覚はさらに触覚・温覚・冷覚・圧覚・痛覚に細分され、合計で8種12分類されると言われます。即ち、視聴覚以外にも多くの感覚にうったえる展示の可能性が広がるはずなのです。そこで最近とみに考えられているのが、触覚にうったえる、つまり「ハンズ・オン」などとも呼ばれている資料に触れてみる展示です。このように、視聴覚に頼ってきた博物館の展示は、触覚に代表されるように他の感覚を応用する場面が多くなっています。バーチャル・リアリティーという機器関係の導入もその一つと言えるでしょう。

様々な感覚にうったえる展示を試みることは、何らかの感覚器官にしょうがいを持っていても、その他の感覚により情報を得ることができていくと考えられます。皆が同じように展示という機能を享受し、資料の持つ情報を共有できることにつながると思います。もちろん、資料保存の観点から、全て触れるようにすべきだと主張するものでもありません。しかし、何の努力もなしに、資料に触れることを拒否してしまう姿勢があるようでは、博物館の使命を果たし得ないことになると思います。

物理的障壁の除去に対する施策はどうでしょうか。最近の施設には、バリアフリー仕様でトイレ・スロープ・エレベーター・駐車場などの整備が進んでいます。ですが、設置するまでは良いとしても、その内容は必ずしも喜ばしいものではない場合があります。

スロープは傾斜度が問題となります。本来はそれ以前に、段差のないことこそ望むべきとも思います。兵庫県洲本市のミュージアムパーク・アルファビアは、段差はもちろん、スロープもない完全フラットを実現した極めて稀な優れた例です。どうしてもスロープで傾斜をつけなければならない場合、車椅子の自力歩行が少しでも多く実現できるために緩傾斜(できれば15分の1以下)にする必要があります。また、スロープを緩傾斜とし、高低差75センチごとに踊り場を設けるという法基準を満たし、ハートビル法の適用を受けている博物館で、その展示空間を長大なスロープで形成するという、車椅子にとって緊張感を生み出すだけの不便極まりないものとなっている実例があります。法の基準と使い勝手の良さ、人への優しさとは別物であることも理解すべきなのです。

トイレは、身しょう者用の設置が多くなり、それは喜ぶべき事かもしれません。しかし、設置している場所の数が一般用よりも少ない場合があります。確かに、全人口に占めるしょうがい者の数に比例させるようなものなのでしょうが、車椅子の場合、移動に時間がかかり、また内部機能しょうがいを伴う場合は我慢ができなくなる恐れがあるので、いわゆる身しょう者用トイレこそ随所に配し、それも多目的トイレとして、あらゆる人が使用可能にすべきでしょう。

エレベーターでは、しょうがい者専用とし、高齢者などの使用を躊躇させてしまう場合があることなどは許し難いものです。車椅子に乗っていなければ使用できないような設置方法では、全ての人にやさしいなどと、とても言えないと思います。博物館というのはさまざまな疲労を伴うことがあるので、全ての人に使用の機会があるべきはずでしょう。

最後の意識上の障壁は、最初に書きました日本の「障害者観」に関わるものでしょう。博物館における差別の問題も払拭していく必要があります。ある調査で、事故が起きるかもしれないからと、しょうがい者への対応を避けている博物館があったと言います。事故が起きないような工夫を心掛けることこそが必要なのに、ことなかれ主義的になってしまっており、差別以外の何ものでもありません。

その他、意外に気付きにくいところでしょうがい者を差別してしまっている場合があることも、知っていく必要があります。例えば車椅子使用者と話をすべき時に、その車椅子を押す介助者に対して話しかけてしまうことなどがあります。本来対面するはずの車椅子使用者の意思を無視することになるのは言うまでもありません。

一つ一つ挙げていくときりがなく、とても書き切れるものではありません。いずれにしても、四つの障壁の除去を目指した施策の必要性を、今後も主張していきたいと思っています。

本当のユニバーサル・ミュージアムを目指すには

シンポジウムの数日後、生命の星・地球博物館において音声ガイド二号機の試聴を兼ねた催しが、視覚しょうがい者の方々との交流会という形で行われ、機器の改善点について話し合われる機会がありました。その時は、それに先がけて行われたシンポジウムのテーマや、主な参加対象者が視覚しょうがい者であったので、その方々への対応の話し合いが行われたのは当然のことです。しかし私はその際、ガイドの内容が館長自身により女性アナウンサーとの対話形式で話されており、館長の生の声・言葉を聞くことができるものであるということから、さらに考えを膨らませ、ガイドを聞くことができない聴覚しょうがい者にも館長の言葉が楽しめるように、テープ起こしした冊子(印刷物)によるガイドの必要性も考えたところです。さらに、手話通訳等のその他のあらゆる方法を模索し、最も良い方法を編み出していく必要があると思います。

しょうがい者というと、一見してしょうがい者であることが判別しやすい視覚しょうがい者や車椅子使用者を思い浮かべがちにあると思います。しかし、聴覚しょうがいというのは一般の予想以上に辛いしょうがいであると思います。かのヘレン・ケラーも、最も辛いしょうがいは耳が聞こえないことであったと話しているくらいです。

「視覚しょうがい者と博物館」という視点を持つことはもちろん必要ですし、そのための意義ある活動を目指そうとすることに何ら問題はありません。しかし、ユニバーサル・ミュージアムが本当にユニバーサルであるためには、さらに裾野を広げて考えていく必要があると思います。

しょうがい者という視点のみではなく、他にも考え得ることは多々あるでしょう。例えば、高知県香北町にアンパンマンミュージアム(やなせたかし記念館)がありますが、そこは4月29日から5月5日、7月20日から8月31日、12月29日から1月3日はいずれも休まず開館、つまりゴールデンウィーク、夏休み、年末年始の期間は無休としており、子供たちがその期間中は、いつでも来館できるように配慮されています。こういった考え方も、ユニバーサルの一つなのではないかと考えるところです。

安心感には見える安心感と見えない安心感という二つの面があると思います。しょうがい者のためにハード面の整備をする前に、心の問題を唱える立場の方もいると思います。それも勿論だと思いますが、一方しょうがい者は物理的配慮がどれだけなされているかという、目に見える安心感をまず求めて博物館へと足を運ぶことがあり、そこで初めてソフト面の良さ、つまり見えない安心感に触れ、さらにリピーターとなり得ていくということもあるのではないでしょうか。とは言っても、やはり最初にハード面の整備をしていれば良いということでもないでしょう。逆に心の問題が解決されていなければ、ハード面の整備に対して充分なる施策ができなくなる可能性もありますし、皆が同じ気持ちにならなければ、設置されたスロープもただの斜面になってしまうだけなのです。心の問題も重大であり、どちらを先に考えるべきとは一概に言えないと思います。スロープを設置したから安心しているようでは、どんな緩傾斜のスロープでも介助無しには自力歩行が困難なしょうがい者に、手を差し伸べることができなくなる恐れがあると思います。やはりハードもソフトも双方関係しあいながら、あらゆる視点でのバリアフリー施策がなされるべきだと考えます。

これまでしょうがい者に対する配慮のなされている博物館は、主に県立クラス、つまり行政レベルの高いところでなされてきた感があります。もちろん東京都渋谷区の手でみるギャラリー・TOMのように個人レベルでの地道な活動もあります。しかし、日本には市町村立や法人、個人立など何千館という多くの博物館があり、多くはバリアフリー施策が充分にはなされていません。ごく一部の博物館のみがユニバーサル・ミュージアムとして機能していこうとするならば、それは誤りだと思います。全ての博物館がその館の規模・運営状況など、それぞれに合った施策を実施していくことにより、ミュージアムという世界全体がユニバーサルになることこそが、本当は大事なのかもしれないと考えるところです。そのためには全ての博物館関係者がこの問題に同様に取り組んでいく必要があると思います。生命の星・地球博物館がそのきっかけとなり、広く普及していくことを今後期待したいと思います。

[目次]触ることの意義と触るための教育

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