神奈川県立生命の星・地球博物館

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1995年9月15日発行 年4回発行 第1巻 第2号 通巻2号 ISSN 1341-545X


自然科学のとびら


Vol.1, No.2  神奈川県立生命の星・地球博物館  Sept.,1995


今号の目次


オオムラサキ

高桑正敏(当館学芸員)

オオムラサキ(30KB)

Sasakia charonda charonda (Hewotson) 1994年7月20日,山梨県韮崎市にて 高桑撮影

 オオムラサキは日本の国チョウとしてよく知られています。しかし同時に、もし神奈川のの県チョウを選ぶとすれば、本来はその候補のまっさきに挙げねばならぬ種類の1つです。と言うのも、神奈川県から得られた標本を基にして命名されたチョウのうち、最古の名称として認められているものは17種ほどあります(本号2―3ページの猪又敏男氏の解説を参照してください)が、年代的にはそれらの中ではもっとも古い(1863年と考証されています)ものの1つであること、丹沢と箱根の高地を除く県内のほば全域に分布している(いた)こと、大きくて美しく、飛び方も勇壮であることなどが、その根拠です。ただし、「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」に記されているように、平地ではすでに壊滅的な状態にあることが大変残念です。

 写真は求愛中のひとコマです。樹液で吸汁中のメスを誘い、2度3度と葉上で求愛していました(右がオス)が、そのつどメスに断られ、ついには離ればなれになってしまいました。

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神奈川県にゆかりの深いチョウ類とその関連資料

猪又敏男(日本鱗翅学会理事)

 神奈川県の横浜は、江戸時代末期に諸外国に開放された港のひとつとしてよく知られています。開港にともない、イギリスをはじめ進んだ科学知識をもった外国人が往来することになりました。やがて彼らは居留区域に定着するものも増え、日本の自然物をさかんに本国に送りました。はじめは本国の博物館や好事家の依頼に応じたケースが多かったようですが、個人的に多くの資料を保持することもありました。このようにして諸外国へもたらされた日本の自然資料は、分野ごとの専門研究者によって次々に記録されていきました。

 チョウ類の標本も彼らの収集や研究対象として重要な位置を占め、“横浜産”の多くの種類が記録されていくことになりました。これらの中には世界で初めて記録される種頼もあり、後世の研究者にとっては該当の種の名称を確定するうえで欠くことのできない報告となっています。私たちはこのような最初の記録文を“○○種の原記載”、記載に用いられた標本の採集地を“模式産地”または“基(準)産地”と呼んでいます。日本で最初に記録され、特定の名称(学名)が提示されたチョウは少なくありませんが、19世紀後半の開国直後では、横浜で採集された材料を基にした報告が抜きんでていたのです。

 それでは横浜あるいは横浜付近を基産地とするチョウを年代ごとに調べてみましょう。

1862年 ヒカゲチョウ、コジャノメ
1863年 オオムラサキ

 以上3種は、イギリス人のヒュウィツスン(W. C. Hewitson)によって記載されました。記載に使われた材料は1861年5~7月に来日した園芸家フォーチュン(R. Fortune)によって、横浜付近で採集されたものです。当時の横浜郊外はオオムラサキのすむ林があちこちにあったものと考えられます。

1865年 アカシジミ、ウラナミアカシジミ
 これらもヒュウイツスンによって記載されています。先に述べたフォーチュンの採集品に基づくものと思われますが、確証はありません。現在では両種とも横浜付近で得られたものとして扱われています。

ウラナミアカシジミ(15KB)図1.クヌギ林に見られるウラナミアカシジミ。神奈川県内では減少が著しいチョウの1つ。

1873年 ウラゴマダラシジミ
 イギリス人のマーレイ(R. P. Murray)によって発表されました。彼は当時横浜に在住していたプライヤー(H. Pryer)から標本を入手して、学名にその名を残しました。材料は横浜付近で採集されたものに相違ありません。

1875年 ミドリシジミ、オオミドリシジミ、ムラサキシジミ、コチャバネセセリ、オオチャバネセセリ、キマダラセセリ、アオバセセリ
 以上7種もマーレイの記載したものです。いずれも小型で近似種をもつものもありますので、彼の識別眼はすぐれていたと言えます。上記の他にいくつかの種を記載していますが、残念ながら提出された名称(学名)は、より古い時代に発表された他の名称に先取りされて、現在は使われることがありません。

1875年 ゴイシシジミ、ゴマシジミ
 これらの2種はイギリス人のドゥルース(H. Druce)によって記載されました。記載文には“Yokohama”と標本の得られた場所が明記されていますが、少なくともゴマシジミは横浜(付近)に棲息していた可能性はほとんどありません。これは関東地方の山地(例えば浅間山や富士山山麓など)で採集されたものが横浜に運ばれ、“横浜産”として国外に流出したためと思われます。日本の地理に不案内な外国人にとって、やむを得ない間違いと言えます。

1877年 オナガアゲハ
 記載者はイギリス人のジャンソン(0. E. Janson)。横浜から少しはなれた相模大山で採集された標本を基にしています。この頃になると、外国人の行動範囲が拡大し、横浜からかなり遠方まで出向いて採集していることが分かります。

1878年 ツマグロキチョウ
 この種もジャンソンによって記載されました。採集地は横浜と記されています。

 以上、1862年から1878年の16年間に、神奈川県から世界に先駆けて発表されたチョウ類17種について簡単にまとめてみました。これらにたいして与えられた名称(学名)は、該当の種を示す唯一の国際名称として現在も受け継がれています。したがって、これらの17種は神奈川県にとって、もっともゆかりの深いチョウと言っても差し支えありません。また、上記のまとめは和名と年代のみで構成されていますので、肝心な学名そのものについては触れられていません。に和名と学名の変化だけをまとめておきます。

 横浜開港にともなう外国人による自然資料の蓄積とその解析は、そのまま神奈川県にゆかりの深いチョウを生み出す契機となりました。そして、このような時代背景とともに、横浜から日本最初の本格的なチョウ類図鑑が発行されることになります。このあたりの経緯に少し触れて、この小文を締め括りたいと思います。

 イギリス人のプライヤー(H. Pryer)は1871年(明治4年)またはその翌年に来日し、横浜に落ち着きました。幼少の頃より博物学に興味をもっていた彼は、昆虫類を中心に各地の資料を集め、特に日本のチョウ類のすぐれたコレクションを作りました。彼はよほど日本が気に入ったのか、何と16年間も横浜に居住し、39才の若さで死去するまで日本各地を精力的に調査したのです。

 このようにして集めた資料を基に、日本では例を見ない学術的な図説の刊行が企画されました。おそらくはプライヤーの日本生活が落ち着いた1875年以降のことだったと思われます。当時の諸外国で出版されたいくつかの図鑑に匹敵するものを日本で作るには、多くの障害がありました。画家の発掘、印刷所や用紙の選定そして費用の調達などです。しかし、プライヤーの熱意はこれらの難題を乗り越えて、1887年に第一分冊の発行にこぎつけました。そして、1888年には第二分冊、1889年には第三分冊が相次いで発行され、ついに大作が完了しました。タイトル名は Rhopalocera Nihonica といいます。

Rhopalocera Nihonica(28KB)

図2.プライヤーの Rhopalocera Nihonica の図版の一部。

 この本はもちろん営利目的で出版された訳ではありません。現在では詳しいことは不明ですが、出版部数は200部以内で、出版後に大半がイギリスに運ばれ、国内に残ったのは50部未満ということです。ですからこの本の原本を見る機会はほとんどありません。しかし、この秋に開かれる本館の特別展「チョウとガの世界」には、他の珍書とともに一般展示されることになっています。

 本書の他にも神奈川県のチョウに関連した資料は数多くあげられますが、日本最初のチョウ類図鑑が横浜から世にでたことを再確認しておきたいと思います。

表1.神奔川県から世界に先駆けて発表されたチョウ

和名 記載時の名称 現在の名称
オオムラサキ Diadema charonda Sasakia charonda
ヒカゲチョウ Debis sicelis Lethe sicelis
コジャノメ Mycalesis perdiccas Mycalesis francisca perdiccas
アカシジミ Dipsas lutea Japonica lutea
ウラナミアカシジミ Dipsas saepestriata Japonica saepestriata
ウラゴマダラシジミ Lycaena pryeri Artopoetes pryeri
ミドリシジミ Dipsas japonica Neozephyrus japonicus
オオミドリシジミ Dipsas orientalis Favonius orientalis
ムラサキシジミ Amblypodia japonica Narathura japonica
コチャバネセセリ Pamphila varia Thoressa varia
オオチャバネセセリ Pamphila pellucida Polytremis pellucida
キマダラセセリ Pamphila flava Potanthus flavum
アオバセセリ Ismene benjamini var.. japonica Choaspes benjaminii japonica
ゴイシシジミ Miletus hamada Taraka hamada
ゴマシジミ Lycaena kazamoto Maculinea teleius kazamoto
オナガアゲハ Papilio macilentus Papilio macilentus
ツマグロキチョウ Terias betheseba Eurema laeta betheseba

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コノハチョウは木の葉に擬態しているのか? ―夕テハチョウ類の生存戦略を考える―

高桑正敏(当館学芸員)

 コノハチョウのはねは、表と裏とではまったく異なっています。表は輝くブルーの地にあざやかな赤帯が走り、とても目立つ色彩なのですが、裏面は「木の葉」チョウのとおりに枯葉そっくりの色をしています。はねの形自体が「木の葉」型なので、はねを閉じると、まさに「枯葉」としか思えません。

 19世紀の探検博物学者として有名なウォーレスは、1869年の著書「マレー諸島」の中で、この仲間の枯葉模様のはねがあまりにもみごとであり、それゆえ捕食者から身を守るのに役だっている、と結論づけています。以来、このチョウは枯葉に擬態した昆虫の代表的な例として考えられてきているようです。確かにはねを閉じている様子は木の葉そのものなのですが……

色あざやかな表ばね

 コノハチョウとその仲間はタテハチョウ科のタテハチョウ族に属し、沖縄や中国から南の亜熱帯や熱帯に広く分布しています。成虫は好んで樹液や腐った果実に集まりますが、完全に静止して吸汁しているときははねを閉じています。ちょうど枯葉が付いているようで、こうした姿は確かに鳥などの捕食者の目を欺くことができそうに思われます。したがって、このような場合には「枯葉に擬態している」という意見にも納得がいかないではありません。

 けれども、このチョウは樹液などに飛来した際は、はねを広げて表面を見せます。表面は輝くブルーにあぎやかな赤帯、という大変目立つ色彩です。またリズミカルに、閉じたり、開いたりという動作もします。したがって、そういうときは鳥の目をごまかすことは、とうてい不可能だと思われます。それに、いくら精巧に枯葉に似ていると言っても、なにかの拍子で鳥が幹に付いている「枯葉」がおいしい食べ物であると知ったら、それを記憶して集中的に攻撃をかけることでしょう。そのように考えたら、はねの裏面が創り出す「枯葉」だけでは、けっして安全とは思えないのです。

 おまけにオスは、しばしば見通しのよい開けた場所の枝先の葉上に止まっています。ときおり何かを追いかけるように飛び立っては、また同じような枝先に静止します。まさにヒオドシチョウなどタテハチョウ族やオオムラサキなどコムラサキ族タテハ類の占有行動(なわばり行動)そのものです。ところが、枝先に静止している際は、通常はねを水平に開いたままなのです。これでは上空からは丸見えで、しかも目立つ色彩はすぐに捕食者に見つけられてしまうでしょう。同様に、飛んでいるときはやはりあざやかな目立つ色彩のために、とくに上空からは丸見えですし、動きがあるためにすぐに見つけられてしまうでしょう。はたしてそれで、大丈夫なのでしょうか?

 答を先に言ってしまうと、それで問題ないのです。なぜなら、コノハチョウのそのような行動と色彩で、今に至るまで健在なのですから。それでは、どうして捕食者に食べられずに済むのでしょうか?

コノハチョウ(11KB)

図1.コノハチョウの仲間(左:表,右:裏)。

鹿野忠雄博士の意見

 じつは、コノハチョウにはねを広げて静止する習性があることは、古くに指摘されていました(楚南仁博、1926;鹿野忠雄、1929)。楚南はそれゆえウォーレスの説にやや懐疑的な意見も書きました。しかし鹿野は、それを受けて、枝先ではねを広げるような行動が多いことを認めながらも、そうしたことは『決して普通の静止状態ではなく、特殊な場合(求愛行動)であり、従って、決して、保護的意義に矛盾する事実でない事が考へられる』(原文のまま、ただしカッコは筆者註)という、ちょっと強引で、論理的でない結論を導いてしまいました。鹿野博士を尊敬する一人として、このような納得がいかない結論に終わってしまったことは物足らないのですが、鹿野もまたウォーレスと同じように、コノハチョウの裏面の枯葉模様のあまりのみごとさに魅入られてしまったのかもしれません。博士に替わって、もう少し議論を深めてみたいと思います。

表ばねの色彩はわざと見つかるため

 コノハチョウの捕食者として考えられるのは、まっさきに鳥です。一般に、鳥類は色彩の識別能力と記憶力に優れていることがわかっています。そうした鳥が緑の林の中で、見通しのよい開けた枝先に止まっているコノハチョウに気が付かないわけはないでしょう。最初は見つけた個体を攻撃するものと思われます。その様子をシミュレーションしてみましょう。

 標的となったコノハチョウは、鳥の第一撃をかわして空に飛び出します。見通しのよい枝先の、しかも頭を先端方向に向け陣取っているので、たいがいの方角から攻撃を受けても狙われたことに気づくのです。鳥はコノハチョウの輝く青やあざやかな赤帯を目標に追いかけます。スピードはもちろん鳥の方が早いのですが、コノハチョウはタテハ類独特の迅速かつ不規則な飛び方で、鳥の攻撃をうまくかわします。そして枝の中や林内の茂みなどに入ってしまい、はねを閉じてじっと止まってしまいます。すると、自慢の枯葉模様が絶大な効果を発揮します。鳥にしてみれば、標的は輝く青やあざやかな赤帯のはねです。しかし、そのはねは完全に隠され、「枯葉」に化けてしまい、しかも明るい場所からいきなり暗い場所になったために、その「枯葉」すらも探すことは難しいでしょう。コノハチョウは首尾よく逃げおおせることができたということになります。これは一種の目くらましです。

 同一個体の鳥がこのようにして、何度もコノハチョウの攻撃を失敗したとしたらどうでしょう。鳥は記憶力がよいだけに、やがてコノハチョウを攻撃しなくなるはずです。つまり、赤や青のあざやかな紋を見せつけることは、狙ってもむだだということをはっきり教えているのです。つまり生存戦略上は、めだつ表ばねをもつことこそ、有利であると考えられます。

 このように考えてみると、コノハチョウのような行動と裏面の色彩をもったチョウは、表に目立つ色彩や紋があるほど、捕食者に対してまやかし効果が高く、それゆえ生存に有利であると言えるのです。それも、表は目立つほど、裏は目立たないほど効果的であるに違いありません。

はねを開いたコノハチョウ(9KB)

図2.葉上ではねを開いて静止するコノハチョウ(石垣島米原,1993年6月10日,高桑撮影)。

美しいものには毒がある?

 ところで、コノハチョウの捕食者に対する防御策は、これで全部でしょうか? もしそうだとすると、コノハチョウとそれを食べようとする鳥との捕食関係の進化の競争の過程で、鳥の方が競争を上回った場合には、コノハチョウの生存は危うくなってしまう可能性が生じます。それに、今のところはコノハチョウが上回っているとしても、はねの表を見せるという行動パタンを変えない以上、いくらかは鳥に捕食されてしまう可能性がありますが、食べられるチャンスがより少なければそれに越したことはありません。

 そこで考えておかねばならないのは、「美しいものには毒がある」かもしれない可能性です。自然界においては、しばしばそのようなこと(警告色)が生じており、チョウもその例外ではないからです。

 体に、毒や捕食者にとってまずい味をもつと考えられるチョウは、その成分を幼虫時代に寄主植物から取り込むようです。植物は昆虫に食べられないように進化してきた一方で、昆虫はなんとか植物を食べようと進化してきたはずです。そうした競争進化の結果、植物のあるものは毒や昆虫の忌避物質を生産するようになり、また昆虫はそうした毒や成分を体内に蓄えることで、昆虫の捕食者に対しての防御に役立てることができるようになったと考えられます。

 コノハチョウの幼虫の寄主植物として知られているのは、キツネノマゴ科のリュウキュウアイ、シンテンヤマアイ、セイタカスズムシソウ、オキナワスズムシソウなど広義のスズムシソウ属。もし、これらの植物が毒やまずい味の元の成分をもっているとすれば、成虫の体内に捕食者の嫌う物質をもっていると考えてよいでしょう。「世界有用植物事典」をひもとくと、藍の原料として知られるリュウキュウアイについて、解熱、解毒、炎症、皮膚病、虫よけなどに用いる薬用植物であることが記されていました。つまり、幼虫時代にリュウキュウアイを食べたチョウは体内に捕食者の嫌う成分を蓄えている可能性が強いこと、もしそれが事実なら、捕食者にわざと目立つ色彩を見せることが生存上有利になるでしょう。自分がまずいということを、はっきりと知らしめることができるからです。

 このように考えてくると、コノハチョウの生存戦略ははねの裏面の枯葉模様だけでなく、表のあぎやかな模様も大きな役割を果たしていると言えそうです。それにしても、はねの目立つ表面と目立たない裏面とのコントラストは、これ以上にないみごとさです。

タテハチョウ類の生存戦略

 さて、コノハチョウで検討してきたことのうち、鳥に対するまやかし行動は、じつは日本など旧北区のタテハチョウ族の種の生存戦略の基本となるものと考えられます。かれらに共通な点は、はねの裏面が目立たない枯葉色ないし暗色であること、しかし表面は赤や黄、青などの目立つ模様をもっていること、ふだんは堂々とはねを広げてみせていることです。危険を感じた場合には薮かげや暗がりに入り込む習性があるかどうかは、私自身クジャクチョウにおける1例しか記憶にないので、はっきりとはわかりません。けれども、表面の目立つ模様は鳥にわざと強烈な印象を与え、裏面の目立たない色は、それゆえに鳥の目をいっそうくらますことに間違いはないと思います。

 もっと話を飛躍させるなら、明るい間に活動するチョウたちの多くが(夜に活動するガたちと違って)目立つ色彩や斑紋をもっているのは、捕食者である鳥にわざとそれをはっきり見せるため、と考えられます。コノハチョウなどタテハチョウ類の斑紋パタンは、そうした生存戦略のもとに進化してきた1例、というわけです。チョウのはねの美しさやいろいろな紋は、じつは生存のための重要な手段となっているものが多いと考えられるのです。

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海にうかぶ地球のまど

山下浩之(当館学芸員)

はじめに

 1995年3月にオープンした生命の星・地球博物館は、地球・生命・神奈川・共生の4つのテーマを主体に常設展示をしています。また、これらのテーマとは別にジャンボブックと呼ばれる27のテーマから構成される実物資料を満載した百科事典から構成される常設展示があります。このジャンボブックは、一定の期間あるいは季節ごとに展示替えを行っています。開館して以来、すでに2つのジャンボブックについて展示替えを行ったのを皆さんは御存知でしょうか。今回、ここで紹介するのは、すでに展示替えを行ったうちの1つ「海にうかぶ地球のまど」です。ちなみに、展示替えを行う前のタイトルは、「星くずが生みの親(隕石)」でした。

海にうかぶ島

 地図を見ると、太平洋のまん中には、たくさんの小さな島があります。どうして、海の中に島ができるのでしょうか。地球の表面は、プレートと呼ばれる数枚の岩石の板からできています。火山の多くは、このプレートがつくられる「海嶺」や、プレートが沈み込んでなくなる「海溝」などの、プレートの境界付近で見られます。これとは別に、プレートの境界以外にも火山が見られることがあります。それが太平洋のまん中に浮かぶ島々です。地球の内部、核とマントルの境界からは「プルーム」と呼ばれる非常に熱い物質が上昇してきます。プルームは、いくつかに分かれながら地表付近まで上昇します。もし、このプルームが大陸の下に達したならば、大陸を引き裂き、アフリカの大地溝帯や紅海のような巨大な大地の割れ目をつくります。海の底に達したならば、海底火山をつくり、やがて成長して火山島になります。このようにしてつくられた火山島には、ハワイ諸島やガラパゴス諸島、サモア諸島、タヒチなどがあります。火山島は、海面上に出ている部分はあまり高くないものが多いのですが、海底からの高さを含めると非常に高い山になります。ちなみに、ハワイ島の最高峰はマウナロアで約4200mあり、ハワイ諸島付近の水深は約5000mなので、海底から山頂までの高さは9200mにも達します。これは、世界最高峰のエベレスト山(8848m)よりも約350mも高い山です。

プルームとプレートのモデル(14KB)

図1.プルームとプレートのモデル。

ハワイの火山

 ハワイの火山は、どのような特徴をもっているのでしょうか。ハワイの火山が噴出するほとんどの溶岩は、「玄武岩」です。玄武岩は、三宅島や伊豆大島など日本でもたくさん見られます。しかし、ハワイの玄武岩は、三宅島や伊豆大島のものとくらべて岩石を構成する元素の割合が異なることや、マグマの温度が高いという特徹があります。温度が高いマグマは、粘性が低いために流れやすく、表面が平滑で丸みをおびた「パホイホイ溶岩」と呼ばれる溶岩になります。記憶に新しい伊豆大島三原山から噴出した溶岩は、ハワイのものより温度が低く粘性も高いために、表面がガサガサした「アア溶岩」と呼ばれる溶岩になります。ハワイに見られるようなマグマによって爆発的な噴火をおこした際には、飛び散ったマグマが細く引きのばされた「ペレーの毛」や「ペレーの涙」などの噴出物が見られます。また、マグマが非常に流れやすいために、火山の形は日本の富士山のようなきれいな成層火山にはならずに、傾斜のゆるい円錐状の「盾状火山」になります。

地球のまど

 火山では、まれに奇妙なものが地表にもたらされることがあります。それは、「ゼノリス」または「ノジュール」と呼ばれているものです。これは、火山のずっと下の地殻やマントルを構成している岩石が、マグマが上昇してくる際に、いっしょに取り込まれて地表までもたらされたものです。陸地の火山のゼノリスは、マグマが上昇する際に厚い地殻を通過するために、ほとんどが地殻を構成している岩石になります。それに対して、海の中の火山で見られるゼノリスは、海洋底を構成している地殻がうすいために、地殻を構成する岩石は見られず、地殻の下のマントルを構成する岩石が多く見られます。そのため、ハワイ諸島などのホットスポットのゼノリスは、おもにかんらん石や輝石という鉱物から構成される岩石で非常にきれいです。私たちは地球の中を直接見ることはできません。そのため、ゼノリスの研究は地球の中を調べるための有効な手段なのです。太平洋にうかぶ島々はそのゼノリスをもたらしてくれます。まさに地球を調べるための窓口なのです。

カンラン岩ノジュール(18KB)図2.カンラン岩ノジュール(中央)。右上はスケールの為のコイン。(クック諸島アイツタキ島,松島義章氏撮影)。

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巻貝のかたち

佐藤武宏(当館学芸員)

 みなさんは巻貝と聞いてどんなイメージをもたれるでしょう。おそらく巻貝ほど身近で、それでいてわからないことが多い生き物も少ないのではないでしょうか。

 巻貝は軟体動物の腹足類というグループに分類されていて、日本とその周辺地域では約7000種類以上が知られています。サザエやほら貝はよく知られていますが、アワビやカタツムリ、アメフラシやナメクジも実は巻貝の仲間です。殻を持った巻貝の殻をみると、薄い殻を持ったもの、厚い殻を持ったもの、とげやいぼいぼ(一般に「装飾」とよばれます)のあるものやないもの、きつく巻いているもの、ゆるく巻いているものなどたくさんのバリエーションがあり、まさにかたちは千差万別です。なぜ、そしていつ頃からこのようなかたちの違いが見られるようになってきたのでしょうか。海にすむ殻を持った巻貝に注目して考えてみましょう。

 巻貝の仲間は今からおよそ5億年以上も昔のカンブリア紀と呼ばれる時代に出現しました。カンブリア紀の海の中ではクラゲやウニ、三葉虫などが大繁栄をしていました。化石になった巻貝の殻を見ると、その時代の巻貝の多くが、それほど厚い殻や装飾などを持っていなかったということがわかります。しかし、今から約2億年ほど前、地上を恐竜達が我が物顔でのし歩いていた中生代と呼ぼれる時代から、海の中では巻貝類の爆発的な進化が始まっていったのです。

 時代を現在に戻しましょう。巻貝と他の生物との間の、食べる食べられるの関係(生物学ではこれを捕食被食の関係と言います)に注目してみると、巻貝類は実に多くの捕食者の貴重な餌になっています。その捕食者は、魚類や水鳥、哺乳類、ヒトデや甲殻類、そして同じ軟体動物のタコや肉食性の巻貝にいたるまで、多くの分類群にわたって存庄します。特に甲殻類のカニの仲間は巻貝が大好物で、水槽で飼ってみると巻貝の殻を器用に割って軟体部と呼ばれる中の身を捕食する様子が観察されます。これらのカニは、藻類や魚の死骸などを食べるカニに比べて、大きく発達したハサミを持つのが特徴です。特にカラッパ科のカニは、右のハサミを缶切りのように動かして殻を割っていきます。また、ワタリガニ科のカニは、ハサミをニッパーのように動かして殻を割っていきます。しかし、彼らの捕食がいつもうまくいくとはかぎりません。時には食事中にカニの天敵の魚類やタコに襲われることもあり、カニも餌よりは自分の命が惜しいのか、捕食を途中で断念してしまうこともあります。運良く難を逃れた巻貝は大急ぎで破壊された殻を補修します。この応急処置が巻貝の殻に「捕食痕」と呼ばれる傷痕となって記録されます。私達はこの捕食痕を確認することによって、その環境に生息する巻貝がどれだけ捕食の危機にさらされているかを知ることができます。

 さて、話を恐竜の時代に戻しましょう。今から約2億年前のジュラ紀の始め頃からカニの仲間が海の中で勢力を伸ばし始めていました。彼らは大きなハサミで巻貝の殻を割って軟体部を捕食していました。カンブリア紀に繁栄したような薄く、装飾のない巻貝は、強力なカニのハサミの前にはほとんど無力なので、カニは簡単に殻を割ることができたのです。このことは捕食痕を持つ巻貝の殻の化石がジュラ紀から白亜紀にかけて目立って増えてきていることからわかります。やがて、巻貝の中に厚い殻や装飾を持つものがうまれました。この厚い殻や装飾がカニの捕食を食い止めたのです。しかし、殻全体を厚くするためにはたくさんのエネルギーが必要になりますから、薄い殻を持ちながらも口の部分だけを厚くしたり、ところどころにひだのような構造を持った殻をつくるようにそれぞれ進化していったのです。それ以外にも細く、きつく巻いた殻や、小さな口でカニのハサミが入ってこないように進化したものも見られます。また、かたちに工夫を凝らさないかわりに砂や況の中に深く潜って生活したり、なにも防御手段を持たないかわりにたくさんの子供を残して、いわば質より量で勝負するように進化したものもあります。捕食者であるカニも巻貝の進化を手をこまねいて見ていたわけではありません。強固になった巻貝を捕食するためにカニもどんどん強力で大きなハサミを持つように進化していきました。進化生物学ではこのようにお互いがいたちごっこのようにそれぞれの戦略を高度化させていくような進化のかたちをエスカレーションと呼んでいます。エスカレーションの結果、実に多くの様々なかたちの巻貝が進化し、現在の私達の目を驚かせてくれるのです。

 海で、また、博物館で様々なかたちの巻貝を見たら考えて見てください。「この巻貝はこんな装飾があるから割られないんだろうな、こんなに口が狭いからカニもハサミを差し込めないんだろうな」と。そして、巻貝の長い長い進化の道のりを思い出してください。

いろいろなかたちの巻貝(9KB)図1.いろいろなかたちの巻貝(相模湾産)。

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