神奈川県立生命の星・地球博物館

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1997年11月15日発行 年4回発行 第3巻 第4号 通巻11号


自然科学のとびら


Vol. 3, No. 4  神奈川県立生命の星・地球博物館  Nov., 1997


今号の目次

表紙「城ケ島」(学芸員 平田大二)
学芸員研究ノート「中国内蒙古自治区の生物調査隊に参加して」(学芸員 木場英久)
カキの生活と進化-岩礁性生物が泥底で生きる知恵-」(大阪大学 鎮西清高)
ヒルゲンドルフと神奈川県 ”日本の魚学・水産学事始め-フランツ・ヒルゲンドルフ展-”によせて」(東京成徳学園短期大学・高等学校 矢島道子)
神奈川の自然シリーズ7「入生田のきのこ」(学芸員 生出智哉)
ライブラリー通信「レッドデータブックにさよならを!」(司書 土屋定夫)
資料紹介「古瀬コレクション 〜古瀬 義氏採集植物標本〜」(学芸員 勝山輝男・高橋秀男)


城ケ島
-海成段丘面と隆起海食台-

平田大二(学芸員)

城ヶ島の上空写真

 三浦半島の最南端にある城ケ島は、周囲約4km、東西約1.8km、南北最長300mの小さな島です。島の中心部には、海抜高度約30mの平坦な高台が広がっています。この高台は、過去の海食台が陸化し、その後の地殻変動により現在の高さまで隆起した海成段丘面です。海食台を覆うローム層の年代から、この海食台は今から約6万年前に陸化したと考えられています。この海成段丘面は、三浦半島南部に広く分布しており、三崎面と名づけられています。一方、島の周囲には現在の隆起海食台が広がっています。この隆起海食台は、1923年の関東大震災を起こした原因となった関東地震など、南関東におきた過去の大きな地震により少しづつ隆起したものです。

このように、三浦半島南部では過去から現在まで、地盤の隆起が続いています。ある研究によれば、その隆起量は年1〜0.3mmと見積もられています。この原因は、三浦半島が活動的なプレート境界域に位置していることによるものです。

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研究ノート 中国内蒙古自治区の生物調査隊に参加して

木場英久(学芸員)

 

私はひとり、大草原の真ん中でジープを降りました。「じゃあ、後で迎えに来るからね。」といって、ジープは砂煙を上げて、轍を残して、小さくなって消えてしまいました。あたりを見回しても、地平線まで続く草原と、青い空と、白い雲しか見えません。風が草原の植物を揺らしていく音以外は、何も聞こえません。しばらくしても、雲と雲の影が、ゆっくりと通り過ぎていく以外は、景色も変わりません。内蒙古の草原はそんなところでした。

内蒙古の草原の写真図1:内蒙古の草原.

調査の目的

私は、今年の7月末から8月末までのあいだ、中国内蒙古自治区の生物調査隊に参加し、大草原を体験してきました。内蒙古やモンゴル人民共和国のあるモンゴルの草原は、古くから遊牧民が放牧を続けてきたところです。そこでは、放牧をしていて草が少なくなると移住するというやりかたで、草原を利用してきました。その結果、草原は使われない間に回復し、また利用できるようになるということを繰り返してきました。ところが、最近になって、人口の増加や定住化などの影響で草原の生態系のバランスが崩れ始めて来ています。草原の動植物が絶滅の危機に瀕しているのはわが国でも同じことです。

そこで、東京大学の高槻成紀先生は、日本生命財団の研究費を得て調査隊を組織し、内蒙古草原の現状を動植物の両面から調べることにしました。大きく言えば、野生生物と人類が共存するための研究です。

私はイネ科植物を専門にしています。草原のはイネ科植物を主体としています。ほとんどの属は日本でも見られ、共通種もたくさんあります。そこで、私はそれらの植物を比較することを目的で調査隊に参加しました。また、滅多に収集できない中国産の植物標本を国内に持ち帰ることも目的のひとつです。

内蒙古草原の気候

ここは、夏には30℃を越す暑い日もありますが、年平均気温は氷点下2℃という、冬がとても寒いところです。サハリン(樺太)と同じ北緯49度あたりに位置しています。年間降水雨量は約300mmです。先日の台風で九州に一晩で900mmの雨が降ったことと比べると驚くべき少なさですね。植物は少ない水を使って短い生育期に育ち、花を咲かせ、実を結ばなければ生き残れません。

草原の植物

日本は雨が多く、植物の生育に適した期間も長いので、人が手を加えずにいると、長い間に森林ができます。人手の触れていない草原があるのは、風の強いところや海岸など特殊な場所だけです。ふつうの場所で草原を放置すると、やがて密に植物が生え、光を取り合う高さの競争が始まり、背の低い植物は、背の高い植物の影になるので生き残れなくなります。樹木や、細い茎でも高さが稼げるつる植物にとって有利な環境になります。

一方、内蒙古では、雨が少ないため、森林ができずに乾いた草原が広がっています。崩壊地や川沿い、窪地などに低木が生えていましたが、大きな樹木はほとんどありません。草原の植物はさほど密生はしていないので、光に対する競争も少ないように見えました。高さの競争が激しくないせいか、つる植物もあまり見られず、ふつう、ハンショウヅルやカザグルマなどのつる植物を連想してしまうセンニンソウ属の植物も、茎が直立していました(図2)。

左はセンニンソウ属の植物、右はトウヒレン属の植物の写真図2(左):茎が直立するセンニンソウ属の植物,Clematis hexapetala.図3(右):葉が細いトウヒレン属の植物,Saussurea salicifolia

もうひとつ、特徴的だと思ったのは、葉の細い植物が多かったことです。イネ科やユリ科のネギ属、キク科のヨモギ属の植物が多様化しているのがアジアの内陸の植物相の特徴ですが、イネ科やネギ属のような単子葉植物ばかりでなく、双子葉植物でも葉が細かったり(図3)、ヨモギのように深く裂けて細い裂片に別れているものがほとんどでした。

 

草原では、一ヶ所ではそうたくさんの種を採集することができません。歩いても、歩いても、草原の様子は変わりませんが、歩き続けていると、ひょっこり別の種に出会います。巨人になって雲の高さから見おろせば、草原にパッチ状に植物が生えているのがわかるのでしょう。大草原で多くの種を採集するためには、移動することが肝心でした。そんなふうに、夢中で植物採集をしていると、遠くからエンジンの音が聞こえて来ました。黒い点が段々近づいてきて、大きくなります。ジープが私を迎えにきてくれたのです。運転手さんは、目印の無いところで、どうやって私のことを見つけたのでしょう。

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カキの生活と進化 -岩礁性生物が泥底で生きる知恵-

鎮西清高(大阪学院大学)

 

カキという生物の特徴

 活発に動き回ることが大きな特徴である二枚貝の中で、カキは堅い基盤に固着してそこで一生を過ごす変わり者です。だが、カキの中でもっともふつうのマガキ属のカキは、固着すべき基盤がない泥の干潟に棲んでいます。カキは、砂泥底に生活する二枚貝の中からいったん岩盤固着性の種類として出現し、そこから再び泥底に戻ったグループなのです。

固着のための岩盤がないのに、カキは何にくっついているのでしょうか。カキのすむ干潟では固着性の生物は泥に埋没して窒息死する危険性が高いのですが、カキは足がないので動けないのに、どうやって埋没せずにいるのでしょう。スープのように軟らかい干潟の上で、なぜ泥のなかに沈んでしまわないのでしょう。彼らは、このような、一見住みにくい場所で巨大な礁をつくり、ものすごい数の個体が生息しています。カキの成功の秘密は何なのでしょうか。そもそもなぜこんな回りくどい進化をしたのでしょう。

泥底に生活するための戦略

 泥のうえで生活しているマガキは前の世代の殻に固着し、それをを足場にして成長しています。これなら固着基盤に困ることはありません。泥に埋もれて死んでも次の世代が生き延び、つぎつぎと積み重なっていくのです。泥底に棲むためのこのような方式をリレー戦略と呼びましょう。

 北海道などの白堊紀層には、1m 余も細長くのびた殻をもつカキ(コンボウガキ)がいます。これは泥が堆積して埋もれるのに対抗して、上に向かって両殻をどんどん伸長させたものらしいのです。このように一つの個体が長く成長して泥より高く体を保持する方法は、泥底で生存するための第2の方式(伸長戦略)といえます。両殻が伸長するコンボウガキのタイプの他に、同じく殻が伸長するにも、一方の殻がカップ状に長くのびて成長し、他方の殻は小さくて蓋のようになるタイプがいます。

 また、新第三紀には、かぼちゃのように丸く膨らんだ非常に重たいカキ化石がいます。しかし、重いのは化石だからで、殻の内部構造を見ると中はもともときわめて軽い物質でできていたことがわかります。このカキは軽い殻をつくって泥の上に浮いていたのです。

カキの殻の軽量構造のイラスト

カキの殻の軽量構造

 マガキのからはとても壊れやすいのですが、それは殻の内部にごく薄くてもろい方解石の板状結晶が集合したチョーク層があるからで、また、殻の内部に空洞ができている場合もあります。チョーク層や空洞があるためカキの殻は極めて軽く、泥に浮くことができるのです。

 カキは生息している場所に合わせて殻の形を変え、時にはねじれたり180 度も曲がったりして大きくなります。これは一度固着したらそこを離れられないカキが、与えられた空間に合わせて形を調節しているのです。このとき、複雑な殻の形を整え、内部を平滑に保つのに、チョーク層が詰め物として使われています。コンボウガキでは、肉体は長いカキの殻の先端にあり、殻の大部分がチョーク層ですっかり埋められ、いわば上げ底になっているのです。このように、カキの殻をつくっているチョーク層は、殻を軽くしたり、上げ底にしたり、形を変化させたり、さまざまに利用されています。すべてカキが泥底上で安全に生活するための方策であり、固着性のカキが泥底に進出することができたのは、このチョーク層のような軽量構造をつくる能力を獲得したためだ、といえそうです。

カキとカキ型動物の進化

 最古のカキは日本から報告されたペルム紀のトサカガキ類のようです。カキには三畳紀末期からいろいろな種類が出始め、ジュラ紀には泥底に棲むマガキの祖先が出現しました。ジュラ紀後半から白堊紀にかけてもっとも多様なカキが現れ、いろいろ変わり者のカキも多くいました。いっぽう、色々な時代の固着性の動物のなかには、カキでないのに同じような形をして、同じような環境に棲んでいたものがいました。系統の異なる生物が、同じ生態的問題を同じ方法で解決していたのです。なぜ同じ解決法が繰り返し使われているのでしょう。問題はつきません。

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ヒルゲンドルフと神奈川県

”日本の魚学・水産学事始めーフランツ・ヒルゲンドルフ展”によせて

矢島道子(東京成徳大学高校)

 

ヒルゲンドルフ展前話

 1994年の夏のある晩、もう真夜中に近い頃、私は、ベルリンのフンボルト大学自然史博物館の前で、立ちすくんでいました。この大きな建物の中に、小さな小さなウミホタル(カイミジンコのなかま)の模式標本があるはずなのだけれどと思っていました。私は、化石カイミジンコの分類学的研究を行っていますので、模式標本はどうしても見たいと思っていました。ウミホタルはドイツ人お雇い教師のフランツ・ヒルゲンドルフ(1839-1904)が日本で採集し、ドイツで最初に研究されて、ヒルゲンドルフの名前が学名についています。

ウミホタルの写真写真1:ウミホタル.写真提供:阿部勝巳氏.

 その冬、縁があって、ベルリンの自然史博物館の中に入ることができました。そこで、私は、ウミホタルではなく、ヒルゲンドルフの集めた膨大な魚のコレクションを見つけました。ヒルゲンドルフが日本に滞在していた時(明治6ー9年)の手紙も見ました。彼宛の日本語の手紙はあまりにも達筆で、私には読めませんでした。明治13年に行われた万国漁業博覧会に出品された、日本の魚の乾燥標本が床にごろりと転がっていました。ヒルゲンドルフの苦労と、日本の先人たちが血のにじむような努力をして世界の漁業国になっていったことをこの標本は物語っていました。これは私1人ではなく、日本中の人に見てもらいたいと思いました。

ヒルゲンドルフの写真写真2:ヒルゲンドルフ.写真提供:ドイツ日本研究所.

ヒルゲンドルフは日本最初の生物の先生

 ヒルゲンドルフのことは、日本でも本国ドイツでもほとんど知られていません。ヒルゲンドルフは東京医学校(東京大学医学部の前身)の博物学(生物学)の先生として来日しました。調べていくと、森鴎外が東京医学校の学生で、ヒルゲンドルフの講義を聴いていたことがわかりました。そのノートによれば、ヒルゲンドルフは進化論の講義をしていました。大森貝塚で有名なモースの講義よりも3年前のことでした。講義の中で、「キュビエは進化論の敵、ジョフラン・サンチレールは古い進化論、ダーウィンは新しい進化論」といっています。また、進化の証拠として、現在の生物の教科書に載っているような「相同の事実や、生物地理的証拠や、個体発生は系統発生を繰り返すというヘッケルの学説」を紹介しています。ヒルゲンドルフは化石巻貝の進化学的研究で学位をとっており、進化論は彼の研究人生の真髄でした。ヒルゲンドルフの研究はダーウィンの『種の起源』第6版で引用されてもいるのです。

森鴎外の講義ノートの写真 写真3(左):森鴎外の講義ノートより.「ヒルゲンドルフの博物学」.文京区立鴎外記念本郷図書館蔵.写真4(右):森鴎外の講義ノートより.進化論の講義.文京区立鴎外記念本郷図書館蔵.

ヒルゲンドルフには横浜も研究活動の舞台でした

 ヒルゲンドルフは現東京大学構内にあったお雇い外国人屋敷に住みましたが、横浜でも活発に活動しました。その当時日本にいたドイツ系外国人はドイツ東亜博物学民族学協会(OAG、現ドイツ東洋文化研究協会)を作り、東京と横浜で会合を開き、さまざまな情報を交換しました。会合の後には、横浜のゲルマニア亭でパーティを催しました。ヒルゲンドルフは書記(後に副会長)としてその運営にあたると同時に、日本の生物、地学その他多くの発見や研究を発表しました。ヒルゲンドルフはベルリン大学で学業を修めましたので、その当時のヨーロッパの最高の学問を背負っていたのです。

何でも研究したヒルゲンドルフ  

 ヒルゲンドルフの研究対象は、ドイツにいるときから興味を持っていた魚が一番多いのですが、何にでも興味を持ちました。これは当時の生物学が自然史(博物学)の長い伝統の上にあったためです。植物、原生動物、海綿動物、腔腸動物、外肛動物、軟体動物、星口動物、節足動物、脊椎動物等、すべての分類群にわたっています。大きな動物はすべて解剖して調べました。たとえば、富士の裾野から連れてこられて、横浜で見せ物になっていたニホンカモシカを手にいれ、それが死ぬと、ヒルゲンドルフは解剖しました。その結果、シベリアやインドに見られるカモシカとは全く異なると報告しています。

江ノ島で発見したオキナエビス

 ヒルゲンドルフは講義の合間には、日本各地を旅行し、魚類や多くの生物を採集し分類学的研究に励みました。江ノ島のおみやげ屋でオキナエビスをみつけ、ドイツに帰ってから、新種として報告しました。古生代の化石に見られる形態的特徴を持っているため、オキナエビスを「生きている化石」と呼びました。ちなみに「生きている化石」という言葉は、ダーウィンの『種の起源』で初めて使われたものです。ヒルゲンドルフは『種の起源』を感動して読み、博士論文でもそれを化石に応用したほどでしたから、ダーウィンの学説をよく知っていました。

オキナエビスの写真写真5:オキナエビス.佐々木猛智氏蔵.

 この論文を読んだ大英博物館自然史部門が、生きているオキナエビスに大枚の報償金をつけました。三崎にある東京大学臨海実験所の採集人、熊さんが採集して、家も建つほどの大金を得ました。このことから「長者貝」の別名がついたそうです。

江ノ島や芦ノ湖での目を見はる採集活動

 ヒルゲンドルフは採集にはとても熱心でした。江ノ島沖の採集では、途中で暴風に出会い、船頭たちは直ちに引き返そうとしましたが、ヒルゲンドルフは採集が大事であると船頭たちを説得し、みごとにホッスガイ(ガラスカイメン)を入手できたこともあったといいます。この時に採集したクーマ類やカイミジンコなどはベルリンに持ち帰られ、それぞれ専門家が研究をして報告しました。

 また、ヒルゲンドルフが箱根芦ノ湖で採集した、たった1個の試料に基づいて記載されたニホンミズシダタミ(巻き貝の仲間)は、その後、日本の研究者が何度採集を試みても発見されませんでした。絶滅したのだろうか、あるいは、他の場所で採集されたものだろうかと考えられていました。1971年にようやく、芦ノ湖でその生息が確認されました。その後、1981年と1982年にも生息が確認されていますが、レッドデータブックでは希少種となっています。

ニホンミズシタダミの写真写真6:ニホンミズシタダミ.石原龍男氏蔵.

日本の魚学・水産学への貢献

 ヒルゲンドルフはドイツへ帰ると、ベルリンの自然史博物館で魚類学の研究をし、日本の魚類学に大きく貢献しました。ヒルゲンドルフの教えは、弟子松原新之助を通じて、日本の魚学、水産学に脈々と流れています。松原新之助は、東京水産大学の前身である水産伝習所や水産講習所の設立に努力し、また、実業界では大日本水産会の設立に献身しました。

展覧会へおいで下さい

 多くの人々の心暖まるご協力をえて、現在、ヒルゲンドルフのコレクションは日本に里帰りしています。来年2月1日からは、神奈川県立生命の星・地球博物館で、”日本の魚学・水産学事始めーフランツ・ヒルゲンドルフ展”として展示されます。展覧会の標本から、先人の苦労が偲ばれることでしょう。

 最後に、私は、ウミホタルの模式標本を1996年夏、ようやく目にすることができたことを記しておきたいと思います。ウミホタルの産地については、長い間、日本のどこかわからないままでしたが、標本台帳から、江ノ島であることがわかりました。

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神奈川の自然シリーズ7 入生田のきのこ
生出智哉(学芸員)

きのこの体は,一般的に微細な糸状の菌糸からできています。菌糸は,種子植物でいえば根・茎・葉に相当し,いわば“きのこ”にとって本体にあたる重要な部分です。

この菌糸は,葉緑素がないために自分で養分を作り出すことができず,もっぱら他の生物に寄生した生活か,死体から栄養分を得る腐生生活をしています。

 菌類は,胞子をつくる場合に子実体(しじつたい)をつくります。この子実体のことを一般に“きのこ”といいます。子実体が,目立つて発達しているものを,一般に「きのこ類」,そうでなく微細で顕微鏡的な大きさのものを「かび類」と呼んでいます。きのことかびは,分類学的にまとまったグル−プをさすのではなく,習慣上の区別にすぎません。

日本には,およそ5,000種のきのこが知られています。そのうち,神奈川県では500種ほどが確認されています。フルイタケやニオウシメジのように,亜熱帯性のきのこも見られますが,気候に関連して暖温帯性のきのこが大部分をしめています。箱根や丹沢の標高の高いところではブナやミズナラの倒木上に,ツキヨタケ,ムキタケ,ブナハリタケ,ヌメリツバタケなど冷温帯性のきのこもみられます。

今から20年前に発足した「神奈川キノコの会」の調査によって 神奈川県にどんなきのこがあるのかは,次第に明らかにされつつあります。収集した標本類は当館や平塚市博物館,横須賀市博物館の収蔵庫にそれぞれ保管されています。

しかし,小田原市とその周辺地域のきのこの本格的な調査はまだ行われていません。まず館の周辺を対象としてどんなきのこが見られるのか調べてみました。

入生田駅北側の照葉樹林

 箱根外輪山の下端に位置する塔ノ峰(標高566.3m)の東側にのびる尾根の先端部分にあたります。この地域は,小田原市の中心に比べ箱根山塊の影響を受け,市街地よりも降水量が多い傾向にあります。

この付近は,スギやヒノキの植林地として,またミカン畑として利用されている斜面も目立ちますが,長興山鉄牛和尚の寿塔付近の樹薮は,神奈川の美林50選に選ばれ,また長寿園から妙力寺にかけての周辺にはスダジイの立派な林が残されています。9月中旬から10月下旬にかけての長寿園近くのスダジイを主体とした樹林内の地面には,ドクツルタケが各所で見られます。このドクツルタケは,高さ15cmぐらいの大きさのもの1本で,小錦関をあの世へ送る毒性をもちます。ドクツルタケの特徴は,柄につばとつぼをもち,一説には毒性をもつ純白の鶴のような茸”という意味あいで名づけられました。このきのこは,手でふれたぐらいでは心配はありませんが,調理して食べることは厳禁です。平成8年の秋には,この林内で80本以上発生しました。その他に,ロ−マの皇帝が好んで食べたきのこといわれるタマゴタケも発生しています。両者はテングタケ科に属するきのこで,形態が複雑に分化し,きのこのなかでは進化したグル−プに属します。

 また,スギ植林地の朽木上には,スギ林特有のスギヒラタケや落枝上にはスギエダタケが発生します。

博物館から南西に位置する一夜城

 早川沿いに下り,太閤橋を横切ると一夜城公園へ通じる道に出ます。ミカン畑,さらにその上は,樹齢40年生ぐらいのスギの植林地になります。このスギ林は箱根タ−ンパイクの上を横切り一夜城公園付近まで続いています。一夜城公園付近はマツが植栽され,マツを主にスダジイ,コナラ,タブノキなども見られます。

スギ植林地内で見られるきのこは,北側の照葉樹林やスギ林で見られるものと同じものですが,道路沿いの草地ではハタケシメジやホコリタケの群生が目立ちます。ハタケシメジは道路沿いや畦などの人の影響を受ける場所に多量に発生する食用きのこです。

ホコリタケはキツネノチャブクロとも呼び,高さが3〜4cmのやや細長い白い球状のきのこです。やがて,袋内の胞子が熟すと先端部に穴があき,褐色に色づいた胞子がほこりの様に外部に飛び出ます。中味が白いうちは,薄く切ってお吸物の具にします。

公園周辺の松を主とする林や芝生上には,コガネタケ,ササクレヒトヨタケ,ケコガサタケなど開けた草地に発生するきのこが見られます。そのなかでも,コガネタケは形態的に興味深い種類で,からだ全体が黄色一色で,傘の表面や柄はあたかも黄粉をかぶせた様な微細な粉に覆われます。食べられるきのこですが,この黄色い粉を煮こぼさないと,人により軽い中毒を起こすことがあるので注意が必要です。

左はドクツルタケ、右はハタケシメジの写真図1(左):ドクツルタケ(テングタケ科)柄につばとつぼをもつ純白なきのこ(猛毒)。入生田では,人家の周辺にも見られる。図2(右):ハタケシメジ(キシメジ科)道路沿いの土上に発生する食用きのこでひだの色は白色。毒きのこのクサウラベニタケは,ひだが桃色か肉色をしているので区別がつく。

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ライブラリー通信
レッドデータブックにさよならを!
土屋定夫(当館司書)            

日本国内や近海に生息する哺乳類のうち、約半数の85種が絶滅の危機に瀕していることが日本哺乳類学会の調査でわかりました。イリオモテヤマネコ、ニホンカワウソ、アマミノクロウサギ、ヤマネ等が絶滅危惧種や危急種に挙げられています。この結果は『レッドデータ日本の哺乳類』(文一総合出版)として出版されるそうですが、最近、レッドデータ関係の出版物が多くなってきた気がします。

環境庁も8月に植物と両生類・爬虫類のレッドリストを公表しました。「植物版レッドリスト」は日本にある種の5分の1が、絶滅の危険にさらされているという現状を浮彫りにしています。また、地域別のレッドデータ作りも始まっています。神奈川県版は当館が1995年に『神奈川県レッドデータ生物調査報告書』としてまとめてあります。埼玉では『さいたまレッドデータブック』(埼玉県)、三重では、『自然のレッドデータブック・三重』(三重県教育文化研究所)、そして、兵庫は『ひょうごの野生植物』(神戸新聞総合出版センター)、近畿では『近畿地方の保護上重要な植物』(関西自然保護機構)等々が出版されています。

分野別では『植物群落レッドデータ・ブック』(アボック社出版局)、『レッドデータプランツ』(宝島社)、『日本の絶滅危惧植物』(農村文化社)、『レッドデータアニマルズ』(JICC出版局)、変わったところでは『日本の地形レッドデータブック』(日本の地形レッドデータブック作成委員会)というものもあります。

これではレッドデータブックの“絶滅”なんて、とても有り得そうもないですね。

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資料紹介 古瀬コレクション 〜古瀬義氏採集植物標本〜

勝山輝男・高橋秀男(学芸員)

このコーナーはこれまで新収資料の紹介でしたが,本号では少し趣を変えて息の長い資料収集を紹介します。当館には古瀬義氏の採集された植物標本が16,882点収蔵されています。これは,当館の前身である神奈川県立博物館が開館した2年後の1969年(昭和44年)から,1回に100〜500点づつ継続して標本が入れられてきたものです。1996年(平成8年)4月,古瀬氏は84才で亡くなられました。20数年間にわたって少しづつ入れられてきた古瀬コレクションもこれ以上増加することはなくなりました。古瀬氏の冥福を祈りつつ,その標本について述べたいと思います。

古瀬氏の自宅にての写真写真1.古瀬氏の自宅にて(右より古瀬氏,勝山,高橋)

1965年(昭和40年)頃,大井次三郎先生の紹介で古瀬氏が多数の標本を収蔵されていることを知り,購入を申し出て快諾を得たのが当館へ標本が入るきっかけでした。標本のラベルを作製するのに時間がかかるため,出来あがると連絡があり,その都度栃木市の自宅へ受取に出かけました。

古瀬氏は戦前より日本各地を歩かれ,その採集標本は15万点を超し,日本一の植物採集家と言われています。しかも,1点1点ていねいに植物を採集し,新聞紙を毎日取り替えて乾燥し,生育環境まで書き込まれたラベルを自分で書いて添付しています。標本のラベルを非常に重視し,採集者が自分でラベルを書かなければ標本の価値は半減すると言われ,自分の満足できる標本のみを他に渡されていました。

古瀬氏は1911年(明治44)年11月25日,飯田市に生まれ,県立飯田中学校を卒業後,慈恵医大予科,松本高等学校を中退し,1934年(昭和9年)〜1935年?頃は共立女子薬学専門学校の助手として小泉秀雄のもとで標本の整理にあたられていたと言われます。その後,外国航路(イギリス)の船員となって海外に渡られ,ロンドンではキュー植物園に出入りして標本について学んだといわれます。戦後は東京都のバス運転手として働きながら,日本各地を採集してまわったそうです。

定年退職後は,北海道,小笠原,琉球などにさかんに植物調査を行い,多数の植物標本を作製されています。特に琉球では1973年から2年間ほど石垣島のおもと岳山麓に住みこみ植物採集に明け暮れたといいます。このときに採集された標本からはコウシュンスゲ,ホウオウザンスゲ,リュウキュウヒエスゲなど多数の日本新産植物が見出されました。

左はアカイシリンドウ、中はキバナコウリンカ、右はコウシュンスゲの標本の写真 写真2(左):アカイシリンドウのタイプ標本(KPM-NA0043075).写真3(中):キバナコウリンカ(KPM-NA0053709).写真4(右):コウシュンスゲ(KPM-NA0068483)

古瀬氏の植物を見る目は鋭く,採集標本がもととなり新種として記載されたものにはキバナコウリンカ Senecio furusei Kitam. などがあります。当館に収められた標本の中にもアカイシリンドウ Gentianopsis furusei Hid.Takah. のタイプ標本(新種を記載するために使われた学術上重要な標本)があります。古瀬氏自身の名前で発表されたものには,中国の陳博士との共著で記載したカイサカネラン Archineottia japonica M.Furuseがあります。

古瀬氏の初期の採集標本は国立科学博物館や東京大学に入れられています。しかし,最近はイギリスのキュー植物園,スェーデン,中国科学院植物研究所など海外に標本を送られ高い評価を得ていました。これら海外に送られた標本の副標本にあたるものが,当館に収められています。

古瀬コレクションの植物標本は当館所蔵の他の約15万点の植物標本とともに,植物を同定する際の比較標本として,神奈川県植物誌や日本の植物相解明のための基礎資料として利用されています。

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