神奈川県立生命の星・地球博物館

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1998年5月31日発行 年4回発行 第4巻 第2号 通巻13号 ISSN 1341-545X


自然科学のとびら


Vol.4, No.2  神奈川県立生命の星・地球博物館  May.,1998


今号の目次


大草原の大きな湿地

―中国内蒙古自治区にて―

木場英久(学芸員)

大草原の大きな湿地(26KB)

木場英久撮影(1997年8月6日)

 大草原を横切る川のほとりに湿原がありました。そこには、草原とはまったく違う種の植物が生えていました。まわりには、見渡す限り乾いた草原が地平線まで続いているので、同じような環境のところまで何百kmも離れているだろうに、どうやって、分布を広げたのだろうと思いました。

 手前に見えるピンク色の花は、ハナイ(ハナイ科)Butomus umbellatus L. です。日本にはありませんが、ユーラシアに分布しています。花の構造などに単子葉植物の原始的特徴を残した種です。

 丸い葉で黄色い花をつけた植物はアサザ(リンドウ科)です。この他、タヌキモ(タヌキモ科)や、ホソバノシバナ(シバナ科)など、日本では絶滅危惧植物と呼ばれる種が花を咲かせていました。エゾミクリ(ミクリ科)、フサモ(アリノトウグサ科)など日本の湿地で見られる植物もありました。日本では、水辺はもっとも植物が絶滅の危機にさらされる環境の一つです。これらの種の住み場所が、失われつつあるのです。

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研究ノート 魚学史―日本の魚を研究した人たち

瀬能 宏(学芸員)

「魚学」、すなわち魚を研究する学問を「魚類学」と言います。魚に関するありとあらゆることを研究するわけで、主なものに、分類学、形態学、生態学、生理学などの分野があります。中でも分類学は、あらゆる研究の基礎として重要なものであり、ここで紹介する日本の魚の研究の歴史とは、分類学的研究の歴史と言い換えてもよいでしょう。

日本の魚を研究した最初の人は誰!?

 さて、日本からは、現在4000種類近くの魚が記録されていますが、日本の魚を初めて学名で記録したのはオランダの開業医だったハウトイン(M.Houttuyn; 1720-1798)でした。1782年、彼は植物の研究で有名なツュンベリー(C. P. Thunberg; 1743-1828)が日本から持ち帰った36種類の魚類標本を記載しました。現在でも、ハウトイン命名の学名は、食卓でお馴染みのムツやマサバを含む14種類の魚で使われています。1793年には、ツュンベリーもまた日本の魚をわずかですが新種として記載しており、オニカサゴやイサキの学名は彼が命名したものです。ツュンベリーは、晩年、「日本動物誌」(1822-1823)を著し、日本産の魚類53種をリストとして公表しています。体系的な魚類誌はテミンクとシュレーゲルの「日本動物誌:魚類」(1843-1850)に待たねばなりませんが、ツュンベリーのリストは、日本産魚類の学名のリストとしては初めてのものです。

大博物学時代の流れの中で

 ハウトインやツュンベリーが活躍した18世紀後期、魚類の研究史の中でも特筆に値する本がドイツで出版されました。ブロッホ(M. E. Bloch; 1723-1799)の「魚類図譜」がそれです。この本は1785年から1795年にかけて9巻に分けて出版され、全部で432枚もの美しい彩色図版が含まれている大著です。この本には、標本の入手先が日本とされている魚が36種類も含まれているのですが、実は本当に日本で採集された標本はひとつもないのではないかということが、琉球大学の吉野哲夫先生らの研究によってわかってきました。当時、ヨーロッパの博物学者は、魚の標本を標本商から購入していましたが、日本産とすれば標本が高価に取引できたため、ブロッホは悪徳標本商にだまされてしまったというのが事の真相のようです。

 19世紀に入ると、フランスの博物学者キュビエ(G. Cuvier; 1769-1832)とバランシエンヌ(A. Valenciennes; 1794-1865)による「魚の博物誌」(全22巻,1828-1850)、ドイツのミュラー(J. Muller; 1801-1858)とヘンレ(F. G. J. Henle; 1807-1885)による「横口類(=サメ・エイ類)の系統的記載」(1838-1841)、イギリスのギュンテル(A. Gunther; 1830-1914)による「大英博物館所蔵魚類目録」(全8巻,1859-1870)などの大著が相次いで出版されました。これらの本の中には、日本産の標本をもとに新種記載された魚が散見されます。また、オランダのブリーカー(P. Bleeker; 1819-1878)は、日本の魚に関する論文や報告を1853年から1879年の間に少なくとも19篇公表しました。

 19世紀は正に大博物学時代と呼ぶにふさわしい時代で、イギリスやフランス、ドイツ、オランダなど、ヨーロッパの強国では、数え切れないほど多くの業績が公表されるようになりました。中でも、シーボルト(P. F. B. von Siebold; 1796-1866)が日本滞在中に集めた標本を、オランダのテミンク(C. J. Temminck; 1778-1858)とドイツのシュレーゲル(H. Schlegel; 1804-1884)が記載した「日本動物誌:魚類」は、日本の魚を科学的かつ系統的に記載した初めての大著としてあまりに有名です。この本には359種の魚が掲載されており、マイワシ、アユ、サヨリ、メダカ、タツノオトシゴ、シロギス、ブリ、マアジ、マダイ、イシダイ、マハゼ、ヒラメ、トラフグなど、私たちに馴染みの深い魚たちの多くが、この本で新種として記載されました。現在でも、150種ほどの魚に、テミンクとシュレーゲル命名の学名が使用されています。

 以上、述べてきたように、19世紀半ばまでは、日本の魚類の研究は、大博物学時代の流れに乗った海外の人たちによって行われてきたのです。では、日本人の手による研究はいつ始まったのでしょうか。

日本人魚類学者登場

 1869年(明治2年)、明治政府が医学教育に当時世界で最も進んでいたドイツ医学を範とする方針を打ち出すと、お雇い外国人教師として、博物学者たちが来日しました。中でも、先に当館で行われた特別展の主人公であるヒルゲンドルフ(F. M. Hilgendorf; 1839-1904)は、日本で最初に本格的な博物学の講義を行った点で注目に値する人物です。彼は1873年から1876年までの3年間、第一大学区医学校(後に東京医学校と改称;現在の東京大学医学部の前身)で教鞭をとりました。その間、通訳を務めるなどして彼の影響を強く受けた松原新之助(1853-1916; 水産講習所(現在の東京水産大学の前身)初代所長)は、魚類学を体系的に学んだ最初の日本人となりました。松原が作成した「万国漁業博覧会出品目録」(1880年; 於ベルリン)は、日本の魚を欧文と学名で紹介した、日本人の手によって作られた最初の印刷物です。このことから、ヒルゲンドルフは、正に「日本の魚学の事始め」のきっかけを作った人物と言えるでしょう。

 ヒルゲンドルフの離日後、ドイツからは最後のドイツ人博物学教師としてデーデルライン(L. H. P. Doderlein; 1855-1936)が来日しました。彼もまた、多数の標本を本国に持ち帰りました。それらはウィーンの魚類学者シュタインダッハナー(F. Steindachner; 1834-1919)と共同で研究され、1883年から1887年にかけて、非常に質の高い報告書として世に出ました。しかし、ヒルゲンドルフもデーデルラインも後継者と呼べる魚類学者を日本では育てませんでしたし、松原もまた、分類学を中心とする魚類研究への道を進むことはありませんでした。

真の日本魚類学の父

 20世紀初頭、事態は一変します。アメリカのジョルダン(D. S. Jordan; 1851-1931)とその一派による本格的な日本産魚類の研究が始まったのです。ジョルダンは魚類学者で、スタンフォード大学の学長にまで登りつめた人物ですが、研究者として超一流であっただけでなく、非常に多くの弟子を育てた教育者としても超一流でした。余談ですが、皆さんはモース(E. S. Morse; 1838-1925)の名をご存じでしょう。東京帝国大学理学部の初代動物学教授で、1877年から1879年まで日本に滞在し、大森貝塚の発見などで有名なあのモースです。実は、初代動物学教授の候補には、モースの他にジョルダンの名もあがっていたのですが、ジョルダンが決めかねているうちにモースが採用されてしまったのです。歴史上傑出した魚類の分類学者であったジョルダンが、もし初代教授として赴任していたならば、大げさでなくその後の日本における魚類学、いや分類学の歴史は大きく変わっていたかも知れません。

 話が少し脇道にそれましたが、ジョルダンは弟子たちを総動員して、日本の魚を片端から研究しました。わずか10年ほどの間におびただしい数の論文が公表されたのです。そのジョルダンの影響を受け、日本人初の本格的魚類分類学者となったのが、東京帝大理学部動物学教室の田中茂穂(1878-1974)です。田中は生涯に170種近い新種を記載した他、論文、論説、総説、翻訳、意見文、紹介文など、無数とも言える著作を残しました。とりわけ、41新種の記載を含む「日本産魚類図説」(全48巻, 1911-1930)や、過去の文献を網羅し、1235種の魚類を収録した「日本産魚類目録」(1913; ジョルダンおよびスナイダーと共著)は代表的なものです。正に「日本の魚類学の父」と呼ぶにふさわしい活躍をした人でした。ジョルダンや田中の研究により、日本の魚類相の槻要がほぼ明らかにされ、後の魚類研究の基礎が完成したと言えるでしょう。

 田中門下からは、天皇陛下のハゼのご研究を指導した富山一郎(1906-1981)、様々な分類群の研究を行い、普及的著作を含む厖大な業績を残した阿部宗明(1911-1996)、高知大学で深海魚や熱帯性魚類の研究を行った蒲原稔治(1901-1972)などを輩出しました。ただ、田中の活躍の舞台となった動物学教室は、昭和の初めに分類学から実験生物学へと研究方針を転換したため、分類学の研究活動の場は、地方の大学へと次第に分散してゆきました。

超人的魚類学者現る

 戦前戦後を通じて、最も優れた日本の魚類学者を一人選ぶとすれば、迷うことなく松原喜代松(1906-1968)の名をあげることができるでしょう。松原の偉大さは、1)日本人魚類学者としては初めて、系統類縁関係を念頭において魚類の分類学的研究を進めたこと、2)すさまじいまでの執念、あるいは情熱といった言葉がぴったりくるほど、レベルの高い多数の業績を残したこと、3)非常に多くの弟子を育て、同年代だけでなく、後の多くの魚類学者に大きな影響を与えたことに集約されます。

 松原は、水産講習所を1929年に卒業し、同時に同所に就職し、以後17年務めた後、京都大学の教授として20年を過ごしました。この間のエネルギッシュな活躍ぶりは、ここではとても紹介しきれませんが、1943年に2回に分けて公表された彼の学位論文「日本産カサゴ目魚類の系統分類学的研究」(資源科学研究所特別報告)、日本産魚類の分類学的研究のバイブルとも賞賛された「魚類の形態と検索」(全3巻; 石崎書店,1955年)、魚類の形態や系統についての体系的な教科書「魚類」(動物系統分類学第9巻(上・中); 中山書店,1963年)、大学における魚類学の教科書となった「魚類学(上・下)」(落合 明および岩井 保らと共著; 恒星社厚生閣,1965年)などが代表的な著作です。

 現在、松原の育てた弟子や孫弟子たちは、北は北海道から南は沖縄まで、全国の大学や博物館、水産研究所等の研究機関に散らばり、日本における魚類研究をリ一ドする立場として活躍しています。そして、弟子が弟子を育て、これからも日本の魚類研究を力強く支えてゆくことでしょう。

おわりに

1998年9月21日、1998年度日本魚類学会年会(於高知大学)において、シンポジウム「魚類標本・資料の収集と管理一生物多様性研究の要をいかに構築するか」が開催されます。魚類学の発展のために、標本をきちんと管理するにはどうすればよいのかということを議論しましょうというわけです。国立大学には附属の博物鋸が建設され、公立の大型博物館が乱立する時代に、何を今更と思われる方も多いのではないでしょうか。しかし、田中茂穂のコレクションでさえ、少なくとも過去30年間は、数人に満たないボランタリーな方々の血の滲むような努力によって支えられてきたのが実状です。

 先人たちのたゆまぬ努力によって、日本の魚類研究は、世界的にみても高いレベルに到達しました。しかし、研究活動を支える基盤は決して盤石なものとは言えません。特に、標本の収集や保管については、目を覆わんばかりの惨状にあることは、一般にはまったく知られていないのです。私たちはシンポジウムでの議論を謙虚に受け止め、日本の魚類学の今後の発展のために、さらなる努力を積み重ねて行く必要に迫られるでしょう。

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日本最初の本格的な水産学徒・内村鑑三

影山 昇(東京水産大学教授)

日本の学問の発展に貢献したお雇い外国人教師たち

 幕末から明治初年にかけて主に研究・教育機関や個人に雇われた西洋人を総称してお雇い外国人教師といいます。

 特に明治政府では欧米先進諸国の科学知識や技術を早急に導入して日本の近代化をすすめるために、政治・法制・財政・産業・教育・文化・科学技術・医学等といった広い範囲にわたって、当時としては思い切った破格の経済的な待遇で数多くの外国人専門家を雇用したのです。

 たまたま東京大学創立120周年記念展示ということで平成9年10月16日から12月14日まで、東京大学附属図書館で「お雇い外国人展」が開催され、東音大学のお雇い外国人教師に注目して、附属図書館所蔵の自筆資料や著作等により東京大学にどのような貢献をしたかを紹介しておりました。

 主な人物としてはエルウィン・ベルツ、エドワード・S・モース、オスカル・ケルネル、バシル・H・チェンバレン、G・ボアソナード・フォンタラビー、ラフカディオ・ハーン等といった人々の資料が展示されておりました。

 こうした折に「日本の魚学・水産学事始め―フランツ・ヒルゲンドルフ展」が県立生命の星・地球博物館で開催されるということで大いに期待しました。それというのも、「シュタインハイム淡水成石灰」の論文で学位を受け(1863年)、ベルリン動物学博物館員・ハンブルク動物園長、ドレスデンのレオポルド・カロリン・ドイツ自然科学院図書館長を歴任した実績を評価して、日本政府が東京医学校予科で「数学・博物学・顕微鏡用法」を担当する外国人教師として任用した人物だったからです(任用期間は明治6年3月1日から同9年7月10日まで)。

 ドイツ動物学の紹介に関しては米国人教師モースが東京大学で動物学を講義する前でもあり、研究者としても一頭地を抜いたお雇い外国人教師であったのに、日本では彼の名前はよく知られていない存在でしたから、隠れた先人を改めて紹介する企画はとても大切だと思ったからです。

 ただ気になった一点は展示表題が「日本の魚学・水産学事始め」とある点でした。

 持に日本の水産学の創始者としている点は実際に展示をみて、その検証のあり方に問題を感じたのでした。

日本の水産学の始まり

 明治9年に開校された北海道大学の源流となる札幌農学校はW・S・クラーク教頭の名前で有名ですが、明治11年に同校に着任した当初、生理学・動物学・獣医学担当のジョン・C・カッターが、明治13年から本科第3年級の第1学期より動物学の講義6時間中の3時間を水産学に当てたことから、日本の水産学は始まったのです。

 カッターの講義の内容を見ると、口述や実験・実習・文献使用による主要食用魚の生活史、食餌、経済的価値あるいは人工孵化、稚魚飼育、輸送、魚類の馴化といった諸問題にまで及んでおり、このカッターの水産学講義に接したことで後年にいたり、水産界で活躍する人材が数多く生まれました。

 とにかく、それまでは水産に関してはこれを漁師の仕事であるといった認識にとどまり、水産学の研究や教育がまったく無視されたままの状態であったのですから、カッターによる日本最初の水産学講義の開始は、まことに意義深いものでした。

 こうした史実のあることについては、今回のヒルゲンドルフ展の企画・推進に当たったヒルゲンドルフ展企画実行委員会に事前に指摘しておきました。しかしながら、実際の展示をみますと、明治13年にベルリンで行われた万国漁業博覧会のために渡欧した松原新之助(東京医学校での教え子)をヒルゲンドルフが助けて、水産動物(海綿・サンゴ・貝類・甲殻類・水鳥・魚類等)や漁業道具、水産物模型、水産物運送道具等を出品、あわせ出品した展示物のカタログ作成にもヒルゲンドルフが松原を援助したという指摘を踏まえ、松原新之助が帰国後、オピニオンリーダーとなって大日本水産会を結成し、現在の東京水産大学の前身となる水産伝習所を村田保と協力しながら設立し、ついで明治36年には官立に移管した水産講習所の初代所長になったということで、ヒルゲンドルフこそ日本の水産学の創始者であるといった結論を導き出し、今回の展示テーマの「日本の水産学事始め」に結びつけておりました。

 せっかく知られぎるお雇い外国人教師ヒルゲンドルフを顕彰する企画であっただけに、まことに残念で、いま少し慎重さと人物にふさわしい展示テーマを打ち出していって欲しかったと思います。

本格的な水産学徒・内村鑑三

内村鑑三(13KB)
内村鑑三,明治20年ニューヨークで撮影.『内村鑑三全集2』岩波書店

 内村鑑三(1861〜1930)といえば日本のキリスト教界を代表する人物で無教会主義の創始者として知られています。

 この名高い内村が日本の水産学の草分けだったと聞けば、驚く人が多いでしょう。

 私は13年前、東京水産大学の『百年史』を執筆するため大学図書館で資料を探していたところ、『水産動物学』という筆書きの原稿を偶然見つけました。受講者の手になる内村鍵三の講義記録です。内村と水産学という意外な取り合わせに、思わず「へえ」と声をあげました。

 これをきっかけに水産学徒・内村の本格的な研究を始めました。

 内村は札幌農学校第2期生徒で、当時のお雇い外国人教師カッター(任用期間は明治11年9月7日から同20年1月20日まで)の水産学講義を受講し、在学中水産学研究を志します。卒業後は開拓使や札幌県の調査研究員になり、北海道内を精力的に歩き回って水産に関わる調査研究に打ち込んでいます。

 内村の一連の調査研究の成果は、その結成にも馳せ参じた、大日本水産会の機関紙『大日本水産会報告』(明治15年4月創刊)の第1号から第37号(明治18年4月)までに、「千歳川鮭魚減少の因」[原文ママ](第1号)・「北海道鱈漁業の景況」(第4号)・「鱈ノ発生」(第21号)・「漁業卜気象学ノ関係」(第21・22号)・「石狩川鮭魚減少の因」[原文ママ](第26号)・「鰊魚に関する調査の成績」(第27・30〜33号)・「漁業卜鉄道ノ関係」(第28号)・「瑞典国鰊漁廃絶の原因」(第37号)といった論文を発表しています。

 その後、内村は明治17年、神学と理学の勉強のために米国に留学。帰国後の明治22年3月から翌23年8月まで大日本水産会水産伝習所で水産動物学を教えています。

 これまでの内村研究は、水産教育者としての側面を、単に生活だけのためだったと片付けているのが大半ですが、大きな誤解です。「水産動物学」の講義記録を見ても、彼がいかに入念に講義の準備をしていたかがわかりますし、房州への実地演習指導にも積極的に参加したことも記録に残っています。

 晩年の日記にも故郷の河川の魚を「我が少時の友」と記すほど魚類を愛し、札幌農学校の卒業演説で水産学の学問的自立を主張し、水産学徒として生きんとした心情は、内村の中に強くあったのです。

 内村水産学は、北海道時代の体験を下敷きに、欧米先進諸国の研究成果を広く渉猟し、水産資源の保護や環境保全についても活発に発言しているのが特色です。

 水産伝習所は明治30年に私立から官立に移管され水産講習所と校名を改称されました。

 内村鑑三は、それまで未開拓であった日本の水産教育を切り開き、水産学研究の可能性に挑んだ本格的なわが国最初の水産学徒であったのです。

 内村という若い青春のすべてを完全燃焼させた先覚の情熱と業績に、21世紀を見据えて大きな問題に直面している現代日本の漁業が学び取れるものはとても多いものがある、と私は考えています。

 なお日本の魚類研究については天明2年(1782)、日本列島周辺の魚が学名をオランダのハウッタインによって与えられヨーロッパに紹介されたのが最初で、20世紀のはじめ米国のジョルダンとその弟子たちが精力的にそれまでの120年間に及ぶ日本の魚類研究をまとめ、かつ新しく発見された種を加え、日本の魚類相の全体像を描き出しています。

 今回の展示では、ヒルゲンドルフとジョルダンやその弟子たちの仕事との間にどのような関連があるのかといった検証がありませんでした。

 ちなみに、その後は日本の魚類学者の努力で新しい種が相次ぎ加えられ、現在では実に3,600以上の種が確かめられております。

内村鑑三講述『水産動物学』(25KB)
内村鑑三講述『水産動物学』の表紙と最初のページ.
『大日本水産会報告』創刊号表紙(12KB)
『大日本水産会報告』創刊号表紙
創刊号掲載・内村鑑三論文(31KB)
創刊号掲載・内村鑑三論文(83-85ページ)
参考文献・資料

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神奈川の自然シリーズ9 神奈川の植物群落

田中徳久(学芸員)

神奈川の植物群落

 神奈川には、3,000種を超える維管束植物(シダ植物と種子植物)が生育しています。これらの植物は、東京湾や相模湾に面する海岸から、海抜1,000mを超える丹沢や箱根の山地まで、それぞれの環境に適合した多様な植物群落を構成しています。その分布は、気温や降水量などの気候的な要因を第一として、地形や地質、微気象などの土地的な要因により決定されます。

照葉樹林とブナ林

ブナ林(23KB)
写真1. 初夏の丹沢堂平のブナ林.

 ある気候条件下で平衡状態に達した植物群落を“気候的極相群落”と呼び、神奈川では、タブノキやスダジイ、シラカシなどを主体とした暖温帯の常緯広葉樹林(照葉樹林)と、ブナを主体とした冷温帯の落葉広葉樹林をみることができます。照葉樹林は、寒さの指数(月平均気温が5℃より低い月の平均気温との差の積算値にマイナスをつけたもの)-15°以上の地域に分布し、ブナ林は、温かさの指数(月平均気温が5℃より高い月の平均気温との差の積算値)85°以下の地域に分布するといわれます。神奈川では、計算上、700〜800m付近がその境界となります。

 神奈川の照葉樹林は、その大部分が、宅地や耕作地として開発されたり、クヌギ・コナラの雑木林やスギ・ヒノキの植林に変えられてしまいました。現在では、“鎮守の森”と呼ばれる社寺林や、急傾斜地に残された斜面林などで、その断片的な姿をみることができるに過ぎません。

 神奈川のブナ林は、丹沢や箱根でみることができ、タテヤマギクやイヌヤマハッカ、マメザクラなどのフォッサ・マグナ要素と呼ばれる植物群を多く含むことで特異な存在です(写真1)。しかし、大気汚染(酸性雨や酸性霧も含む)によるブナの枯死やササの衰退、シカの食害、乾燥化による林床植物の構成種の変化など、さまぎまな課題を抱えています。

ハコネコメツツジとカワラノギク

 土地的な要因により、気候的極相群落とは異なる平衡状態にある植物群落を“土地的極相群落”と呼び、さまぎまな立地に、多くの植物群落をみることができます。丹沢や箱根の、強風のために森林が発達できない山頂や稜線付近に成立している風衝草原などはその代表で、そこに生育するハコネコメツツジは、神奈川を代表する名花です。しかし、このハコネコメツツジも、他の多くの植物とともに、園芸目的の採取により消失の危機にさらされています。信じがたいことに、国立公園内においても盗掘が行なわれ、現在でも堀跡をみかけることがあります(写真2・3)。

 また、他の土地的極相群落についても、今まで平衡状態にあった環境に対する改変が、その植物群落を脅かしている例があります。相模川などの河川敷には、“極相群落”としては捉えにくい面もありますが、カワラノギクやカワラハハコ、カワラヨモギなどを構成種とする植物群落が、定期的に繰り返される洪水により維持されてきました。しかし、ダムの建設により礫の供給が少なくなり、近年の管理型の治水施策により、堰堤や堤防等が整備され、洪水が起きにくくなりました。そのため、洪水による撹乱によって維持されてきた河原の植物たちは大きなダメージを受けています。さらに、帰化植物の繁茂や、4WD事やオフロードバイクによる踏圧、バーベキューなどのアウトドアライフを楽しむ人たちの影響なども大きな問題です。

ハコネコメツツジ(28KB)
(左)写真2. 1994年撮影 (右)写真3. 1996年撮影
写真2のハコネコメツツジの大きな株と写真3のコケに縁取られた岩の露出した白い部分の形に注意して下さい.

人の力を必要とする雑木林

クヌギ(29KB)
写真4. 伐採と萌芽を繰り返し根上がりしたクヌギ.

 一方、人の力を必要とする植物群落もあります。里山に広がる雑木林は、薪や炭、堆肥のための落葉を採取する場所として、定期的な伐採や落葉掻きなど、人が管理することにより、その姿が維持されてきました(写真4)。しかし、近年では、生活様式の変化から、薪や炭の需要がなくなり、堆肥も用いられなくなりました。その結果、雑木林は放置され、アズマネザサなどが密生し、昔日の面影はありません。また箱根仙石原に広がるススキ草原も、火入れなどにより、草原が森林へと移り変わっていくのを抑え、人の手により管理してきたものです。これらの人の力を必要とする植物群落も、神奈川の貴重な植物群落として、人の生活と密着したその姿を維持しつづけていく必要があるのではないでしょうか。

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ライブラリー通信 植物学と植物画

内田 潔(当館司書)

 当博物館において4月25日から1か月間小林政紘氏の植物画展が開催され大変好評を博しました。近年、植物画数室が博物館をはじめ、各種スクールなどで開講されて人気講座になっているようです。

 ところで、植物学と植物画、あるいは植物学者と植物画家は歴史的にはどのような関わりをもってきたのでしょうか。『植物学と植物画』(八坂書房)はこの観点から両者の関係を考察したものです。優れた植物学者が同時に優れた植物画家という場合もありましたが、たいていの場合、お抱えの画家=絵師を雇っていたようです。有名なところでは近代植物分類学の祖といわれるリンネと植物画家のG. D. エイレット。『ボタニカル・マガジン』を引き継いだ植物学者で名編集者でもあったフッカー父子と画家ウォルター・フィッチ。シーボルトとその絵師であった川原慶賀など植物学者と画家の結びつきは多数あります。

 植物画家がいわば植物学者の視覚的表現の担い手として植物学の普及に果たした役割は大きなものがありますし、芸術表現としても秀れた多くの作品を残しています。植物学者の業績については多く語られてきましたが、そのパートナー、視覚的表現者であった植物画家について、私たちはその名前さえあまり知りません。

 植物画家の多くはその生存中にあってさえ一部の例外を除けばその業績にふさわしい待遇を受けることは稀で、『ウイリアム・カーティス花図譜』(同朋舎出版)によれば『ボタニカル・マガジン』を中心に生涯に1万点近い植物画を描いたと言われるフィッチでさえ経済的には恵まれなかったといいます。

 植物学の発展を片側から支えた彼ら植物画家の業績が正当に評価されずにきたのは、何故だったのでしょうか。個々の植物画家が歩んだ人生そのものも興味引かれるものがあります。この辺りの事情については『植物図譜の歴史』(八坂書房)や荒俣宏著『図鑑の博物誌』(リブロポート)などが参考になるでしょう。

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資料紹介 地球観測衛星ランドサットと地図のデジタルデータ

新井田秀一(学芸員)

 博物館には、実にさまざまな資料があります。このコーナーで今までに紹介してきたのは、化石や鉱物、剥製、植物標本といった実物の資料でした。今回紹介するのは、デジタルデータ(磁気テープ、CD−ROM)です。入れ物自体は意味を持ちませんが、その中にはとても重要なデータが書き込まれています。

地球観測衛星ランドサット

 地球観測衛星ランドサットは、1972年に1号の打ち上げに成功して以来、現在は5号が運用中です。当館では直接受信することができないため、リモートセンシング技術センターから磁気テープやCD−ROMとして提供されています。

 航空写真は、撮影高度が低いため、細かく観測できます。しかし人間が情報を読み取らなくてはいけないため、広範囲には不向きです。しかしランドサットは、700キロメートルという高度にもかかわらず、約180キロメートル幅を30メートルの解像度で観測します。しかも写真と違って、コンピュータで解析できるように可視域から中間赤外域までを波長帯ごとに強さを測ります。このため、色の違いから地表に何があるのかを調べることができます。当館では、1982年以降、関東から中部地方にかけてのエリアについて、毎年継続して収集しています。関東地方全体をカバーすると、磁気テープ6本分になります。

 図1は、ランドサットが観測した1997年4月の神奈川県です。中間赤外域をレッド、赤色域をグリーン、緑色域をブルーに割り当てる画像処理を行いました。このために植物の分布が強調され、森林と草地との区別がつくだけでなく、市街部との区別もつきやすくなります。

ランドサット(28KB)
図1. ランドサットが観測した1997年4月14日の神奈川県

数値地図

 2万5千分の1地形図のエリアについて、ほぼ50メートルごとの標高値を読み取ったものが、建設省国土地理院が発行している数値地図50mメッシュ(標高)です。これは、CD-ROMで提供されています。

 数値地図からコンピュータを使って描いた鳥かん図が、図2です。国府津沖南東11キロメートルの地点上空6,000メートルから富士・箱根を望んでいます。箱根火山のカルデラがよくわかります。このCGでは、地表を看色するために前述のランドサットの画像を使用しているため、リアルな感じになっています。このように鳥かん図を使うと、地形の生い立ちが理解しやすくなります。標高データとランドサットデータを組み合わせると、地形だけでなく、標高に応じた植生の変化などもわかりやすくなります。

 当館では本州から九州・沖縄までのエリアについて50メートルメッシュのデータを、また、全国の1キロメートルと250メートルメッシュを収集しています。その他にも今回写真では紹介しませんでしたが、20万分の1地勢図や2万5千分の1地形図をそのまま画像にした数値地図(地図画像)というCD-ROMも収集しています。

鳥かん図(26KB)
図2. 国府津沖から富士・箱根を望む(鳥かん図)

 自然環境の変化を調べるには、現地調査が必要です。しかし、現地調査を行うには限界があります。今回紹介した地球観測衛星の画像や標高データは、その不足分を補うことができます。当館では、共生展示室内にあるCPUルームにおいて、自然環境の変化などをこれらのデータを使って調べています。


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