神奈川県立生命の星・地球博物館

[戻る]

1999年8月15日発行 年4回発行 第5巻 第3号 通巻18号 ISSN 1341-545X


自然科学のとびら


Vol.5, No.3  神奈川県立生命の星・地球博物館  Aug.,1999


ライブラリー通信 谷戸・谷津

内田 潔(司書)

神奈川県内には、単に谷戸、あるいは○○谷戸と呼ばれている地名がいくつかあります。なかにはバス停などに辛うじて残っていたりします。よく見聞きするようになってきたのは前号で取り上げた「里山」の語と同様、比較的最近になってからだと思います。 谷戸と同じ意味で使われる語に谷津があります。いずれも同じ地形を意味するもので、雑木林に覆われたなだらかな丘陵地が浸食されてできた谷間の低湿地のことです。この低湿地のことを私たちは一般に谷戸とか谷津とか呼び、そこに広がる田圃を谷戸田とか谷津田と言い習わしてきました。

ところで、この谷戸を『岩波・広辞苑、講談社・日本語大辞典、小学館・大辞泉』などの国語辞典でどのように説明しているのか調べてゆくうちに面白い事が分かってきました。いずれの辞典も「やと」を引くと単に谷という字が当てられて、やつ(谷)を見なさいとなっています。そこで「やつ」を見ると「低湿地の事で、関東地方の地名に多い。やち、やととも言う」と定義されています。つまり、「やと」「やつ」は谷という一字で表わされ、谷戸、谷津、という漢字形としては収録されていないのです.さらに、それらは関東地方といういわば一地方に多い地名に過ぎないというのです。それならと、谷戸、谷津が付く地名の分布を見るために『新日本地名索引』(アボック社出版局)を引いてみました。すると一部例外はあるものの、確かに関東及びその周辺の県でそのほとんどを占めています。千葉、茨城以外の県では谷戸、谷津が混在していますが、全体としては谷戸の方が多くなっています。特徴的なのは、谷津の方が分布域がいくらか広いことですが、興味深いのは千葉、茨城の両県では谷戸と付く地名がほとんどなく、谷津のみを用いていることでした。このことと符合するように、自然誌関係の刊行物を見ていると、千葉県の関係者が記述する場合はほとんどが谷津や谷津田であり、神奈川県の関係者の多くは谷戸、谷戸田と表現する場合が多いようです。

谷戸、谷津の二語がこのまま共存して使われていくのか、それともどちらかが優勢になっていくのか目下のところ見当がつきませんが、地名はそれが使われる地域の背後に長い歴史・文化を背負っていますから、このまま棲み分けをしながら使われてゆくような気がします。いずれにしても関東周辺で生まれ育った者にとっては、谷戸や谷津は一般的な地名、あるいは地形を指す言葉と思いがちですが、実はローカルな地名、言葉だったというわけです。「里山」の語のように全国的な知名度を獲得しうるかどうか、今後の推移が気になるところです。


[戻る]