神奈川県立生命の星・地球博物館

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1999年12月15日発行 年4回発行 第5巻 第4号 通巻19号 ISSN 1341-545X


自然科学のとびら


Vol.5, No.4  神奈川県立生命の星・地球博物館  Dec.,1999


資料紹介 酒井恒博士画・カニ類の原色細密画

佐藤武宏(学芸員)

理学博士 酒井 恒(さかい・つね;1903-1986)先生は、神奈川が世界に誇る偉大な動物学者であり、甲殻類の研究に関しては、日本で酒井先生の右に出るものはいない、といっても過言ではありません。先生は、現在日本で知られている1,000種近いカニの、約8分の1にあたる125種類を超える種を、新種として記載しました(詳しくは先の特別展「カニの姿―酒井コレクションから―」の図録をご覧ください)。

魚や甲殻類など、水の中で生活する生きものは、生きているときの色彩を保存するのが大変困難です。保存のため液浸標本にすると、アルコールの脱色作用によって色彩は失われてしまいます。しかし、分類学的研究においては、標本の持つ形態的情報だけではなく、色彩的な情報も重要です(詳しくは瀬能学芸員が1994年に(旧)神奈川県立博物館だより, Vol.27, No.1に紹介した記事をご覧ください)。標本の色彩の意義を、大変重要視されていた酒井先生は、採集したカニを液浸標本や乾燥標本として保管する一方で、細密画による色彩の保存にカを注がれました。当時はカラー写真の技術が未完成だったことや、一般にそれほど普及していなかったことなどから、細密画は、色彩を記録するための切り札だったのです。

この細密画は、先生自らの手によってペンで下書きされ、奥様が水彩絵の具で彩色されたものです。そして、先生の研究の集大成でもある、大著「日本産蟹類」の図版としても使用されました。先生が相模湾で採集し、新種として報告したサガミトゲコブシガニやマナヅルノコギリガニはもちろんのこと、ガザミやイソガニといった、ごく普通の種も、驚くほどていねいに描かれ、彩色が施されています。これらの細密画からは、神奈川を愛し、相模湾を愛し、そして何よりもカニを愛した先生の情熱が伝わってきます。

先生が集められた標本は、1968年から1972年にかけて当館の前身である神奈川県立博物館に寄贈され、当館に引き継がれています。これらの標本は、先生の愛弟子にあたる村岡非常勤学芸員(元学芸部長)によって、小田原利光博士寄贈の小田原コレクションとともに大切に管理されてきました。細密画は、先生が自ら整理の上、1985年から神奈川県立教育センターに順次寄贈されてきましたが、先生は寄贈完了の日を迎えることなく、帰らぬ旅路につかれました。その後、先生の遺志と奥様のご好意によって、1987年に寄贈の手続きが完了しました。

細密画は教育センターで大切に保管され、一部は展示され、一部は研修等にも利用されていました。博物館では、この特別展を機に、標本とあわせて博物館に収蔵し、甲殻類研究に利用したいことを申し入れ、ご遺族のご了承を得て、正式に移管の手続きがなされることになりました。

分類学者の眼が捕らえ、精巧な筆致で再現された細密画は、学術的に価値が高いばかりではなく、芸術作品としても完成された最高傑作です。約30年振りに再会した、この世界でたった1セットのオリジナルの細密画と貴重な標本とを、共に収蔵できることを大変誇りに思うとともに、積極的な活用に努めたいと考えています。

今回の細密画の移管にあたっては、酒井先生のご遺族である酒井敦生さん、酒井勝司さんのご配慮を、教育センター所長の内藤昌孝さん、同センターの山川宏さんをはじめ生物担当研修指導主事の皆さんのご協力をいただきました。記して心よりお礼申し上げます。

サガミトゲコブシガニ
マナヅルノコギリガニ
酒井先生が新種として記載したサガミトゲコブシガニ Arcania sagamienis Sakai, 1969(上)とマナヅルノコギリガニ Schizophroida manazuruana Sakai, 1933(下).細密画.和名・学名共に神奈川の地名にちなんで命名されました.
ガザミ
イソガニ
相模湾にごく普通にみられるガザミ Portunis(P.) trituberculatus (Miers,1876)(上)とイソガニ Hemigrapsus sanguineus (de Haan,1835)(下).細密画.

ドロイシガニ
ドロイシガニ Zalasius dromiaeformis (de Haan, 1839). 細密画.生時は軟毛に覆われています(図の右側).この軟毛を除去すると(図の左側),甲表面には溝や顆粒が認められます.細密画では一枚の絵でこの両者の特徴を表現することができます.

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