神奈川県立生命の星・地球博物館

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2001年6月15日発行 年4回発行 第7巻 第2号 通巻25号 ISSN 1341-545X


自然科学のとびら


Vol.7, No.2  神奈川県立生命の星・地球博物館  Jun.,2001


『神奈川県植物誌2001』の分布図から分かること

田中徳久(学芸員)

神奈川県は、全国的にみて植物相の調査が非常に進んでいる都道府県のひとつです。1933年に刊行された『神奈川縣植物目録』(松野重太郎編)に始まり、1958年の『神奈川県植物誌』(神奈川県博物館協会編)、『神奈川植物目録』(宮代周輔)、1988年の『神奈川県植物誌1988』(神奈川県植物誌調査会編;以下『植物誌1988』と略記)と続き、そして今回刊行される『神奈川県植物誌2001』(神奈川県植物誌調査会編;以下『植物誌2001』と略記)は5冊目の県単位の植物誌となります。

特に、1988年に刊行された『植物誌1988』は、県民参加で、県内を108個のメッシュに分け、標本の採集等の調査を行ったこと、証拠標本が県内の博物館に保管されていること、それをもとにした全種の分布図が掲載されていること、検索表を完備し、植物体の部分図などが掲載され、図鑑としても活用可能であることなどなど、これまでの植物誌とは一線を画す特長を備え、神奈川県内だけでなく、全国的にも高い評価を得たものでした。『植物誌2001』は、当初『植物誌1988』の改訂版として刊行が計画されました。しかし、その内容は改訂版というよりも、改訂新版ともいうべきものになり、植物の記載や詳細図が大幅に改訂、加筆、追加されています。そして、そのもっとも大きな改訂点のひとつは分布図にあると思います。

『植物誌1988』の分布図は、市町村区を基本とした108個の調査メッシュごとに植物の分布の有無を表示していましたが、『植物誌2001』では、国土基本メッシュの3次メッシュ(約1km四方)により標本1点1点の採集地点を表示しています。この分布図の改訂は、パーソナルコンピュータの処理能力の向上によるところも大きいのですが、標本を集積している平塚市博物館、横須賀市自然博物館、横浜市こども植物園、川崎市青少年科学館、厚木市郷土資料館、相模原市立博物館と、神奈川県植物誌調査会の会員を中心とするボランティアの協力により、標本1点1点のデータが登録されたことにより、初めて可能となったものです。

ここでは、『植物誌2001』に掲載した分布図のいくつかを例にとり、そこから読み取れる興味深い情報を紹介します。

分布図(図1〜6)の凡例

△:1978年以前に採集された標本
○:1979年〜1987年に採集された標本
●:1988年以降に採集された標本
※分布点は古い採集年月日を優先して表示しています

分布図の基礎データ

『植物誌2001』の分布図は、当館を含めた前述の県内施設7館に集積された250,000点を超える標本のうち、3次メッシュデータなどの情報に不備があるものや、明らかに栽培されているものが採集された場合などを除いた、約245,000点の標本データにより描画されています。同一の植物が同じメッシュで採集されている場合もあり、変種も含めて約3,300種の分布図に、180,000個の分布点が打たれています。

前述の国土基本メッシュの区分に当てはめると、神奈川県全体が2,573個の3次メッシュになります。標本が採集されたメッシュは、そのうちの2,279メッシュ(88.6%)でした。500種類以上の植物が採集されているメッシュは、19メッシュありました。このメッシュについては、該当する1km四方中に生育するすべての植物が採集されたと考えても差し支えないでしょう。逆に、300メッシュ以上で採集された植物はベニシダ、イヌワラビ、タチツボスミレ、イノデ、オクマワラビの5種類でした。これらの植物は、県内に広く分布する種類であることは間違いありませんが、タチツボスミレはともかく、「これは本当にベニシダかな?」「イノデかな? もしかして雑種かも? 」と疑問に思う採集者の心理を反映した結果であるかもしれません。

分布を拡大した植物〜帰化植物編〜

全県をくまなく調査し、均等に標本を採集しなければ、ある植物の分布の変遷を正確に記録することはできません。その意味では、今回の『植物誌2001』のための調査は、あくまでも『植物誌1988』の補充調査として始ったものであり、均等な採集が行なわれたわけではありません。しかし、いくつかの植物では、その分布図から分布が拡大していることが読み取れます。

ウラジロチチコグサ Gnaphalium spicatum(キク科)は、『植物誌1988』でも横浜などの市街地を中心に記録されていますが、『植物誌2001』では箱根や丹沢などの高地を除くほぼ県内全域で記録されています(図1)。

ウラジロチチコグサ分布図
図1 ウラジロチチコグサ
ウラジロチチコグサ写真
ウラジロチチコグサ(勝山撮影)

メリケンガヤツリ Cyperus eragrostis(カヤツリグサ科)は、1959年に四日市市に帰化しているのが気づかれた植物です。『植物誌1988』では、相模川や鶴見川などの大河川や港湾部で記録されていましたが、『植物誌2001』では、その周辺にも分布を広げています(図2)。

メリケンガヤツリ分布図
図2 メリケンガヤツリ
メリケンガヤツリ写真
メリケンガヤツリ(勝山撮影)

分布を拡大した植物〜地球温暖化編〜

タシロラン分布図
図3 タシロラン

雑木林が放置され、遷移が進行した結果、照葉樹林的な、年間を通して暗く適湿な環境が増大し、そのような立地を生育環境とするいくつかのラン科植物やシダ植物が分布を拡大しています。この分布の拡大は、いわゆる地球温暖化の影響かもしれません…。

タシロラン Epipogium roseum(ラン科)は、葉緑素を持たない腐生ランです。『植物誌1988』では、三浦半島1ヶ所で記録されていましたが、『植物誌2001』では沿海部を中心に産地が増加しています(図3)。

特異な分布を示す植物

サンショウバラ分布図
図4 サンショウバラ

高橋秀男(1985. 神奈川自然誌資料, (6): 1-11)は、神奈川県の植物地理を考察し、湘南・三浦海岸地区、県央地区、小仏・多摩地区、丹沢・箱根地区(丹沢亜区,箱根亜区)に区分しています。また、大場達之(1988. 神奈川県植物誌1988. pp.1411-1412)は、分布類型については今後の研究課題であるとしながらも、5個の基本型と64個の亜類型を提唱しています。 『植物誌2001』のデータを統計的に解析することによって、これらを統合した形での新たな神奈川県の植物地理区分が構築できないかと考えています。ここでは、その基礎になると思われる特徴的な分布を示す種類の分布図をいくつか示しました。

サンショウバラ Rosa hirtula(バラ科)は、本誌の表紙でも解説しましたが、箱根山地と、丹沢山地の箱根寄りの地域に分布します(図4)。分布図でみるとその傾向は一目瞭然です。

イソギク Dendranthema pacificum(キク科)は、海岸断崖に生える植物です。一部で植栽されていた可能性がある標本が採集されていますが、海岸断崖のある三浦半島と真鶴周辺で採集されています(図5)。

イソギク分布図
図5 イソギク
イソギク写真
イソギク(田中撮影)

ナガバノスミレサイシン Viola bisseti(スミレ科)は、箱根と丹沢の両山地と、多摩丘陵に分布します(図6)。多摩丘陵はカタクリやタマノカンアオイなどが分布する興味深い地域です。

ナガバノスミレサイシン分布図
図6 ナガバノスミレサイシン
ナガバノスミレサイシン写真
ナガバノスミレサイシン(勝山撮影)

『神奈川県植物誌2001』その後

手前みそですが、『神奈川県植物誌1988』や『神奈川県植物誌2001』が優れているのは、その証拠となる標本が博物館に集積され、今後の活用が可能な状態にあることです。神奈川県の植物相の現状と変遷を捉え続けるため、今後も標本を収集し続けることが、博物館の重要な役割であると思います。「継続は力なり」であって、10年後、20年後、100年後のため、活動を続けて行く必要があるのです。

なお、『植物誌2001』は7月20日から当館ミュージアム・ショップで販売予定です。


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