神奈川県立生命の星・地球博物館

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2003年3月15日発行 年4回発行 第9巻 第1号 通巻32号 ISSN 1341-545X


自然科学のとびら


Vol.9, No.1  神奈川県立生命の星・地球博物館  Mar., 2003


神奈川の自然シリーズ17 波の下のギリギリのバランス

佐藤武宏(学芸員)

神奈川県の南に広がる相模湾は決して大きな湾ではありません。しかし、複雑な地質を背景に持つため、海岸の地形、海底の底質は変化に富み、急峻で、水深1,500メートルを超える日本第二位の深さを誇っています。その上、寒流と暖流がぶつかり合う場所に位置し、多様な環境のもと、驚くべき沢山の種類の生きものが生息する箱庭のような世界有数の自然の宝庫です。

今回はその相模湾の最奥部、藤沢市の鵠沼から辻堂の地先の海域で観察された面白い現象を紹介します。この風光明媚な 白砂青松の海岸は、かつては別荘地として、現在では湘南を代表する観光地として多くの人を集めています。一方では、現在でもシラス漁や地引き網などがさかんに行 われている場所でもあります。ところが、この海域にどのような底生生物がどれだけ 生息しているか、という点に関しては、まだまだ良くわかっていないことも多く残されていました。そこで、生物の分布や生活史に関する基礎的な調査を、1999年から開始し、現在も継続して調査を行っています。

調査に使用した漁具. 採集された生物.
図1. 調査に使用した漁具.この漁具を海底に沈め,曳航して生物を採集する. 図2. 採集された生物.ダンベイキサゴ,バカガイ,ツメタガイ,トゲトゲツノヤドカリ,チョウセンハマグリなどを含んでいた.

調査の方法は単純といえば単純です。船にチリトリのようなかたちの漁具(図1)を取り付け、海底を曳いていきます。そして、採集された生物(図2)の種類、重量、個体数などを記録していき、季節的な変化や成長の様子を調べるというものです。方法こそ単純かもしれませんが、水深数メートルの極めて浅い海、まして多くのサーファーやボディーボーダーがいる間を操舵するには漁師さんにとっても細心の注意と技術が必要です。漁具を曳いている間に私たちは位置や水深などのデータを記録しなければなりませんし、揺れる船の上で採集物を選り分けたり、サイズや重量も記録しなければなりません。冬は寒く、夏は暑く、ちょっとしたうねりに見舞われると船は大きく揺れ、小さな修羅場を味わうことになります。

そうした調査の積み重ねによって、いくつかの面白い現象が明らかになってきました。一つ目は、水深に対応して、生息している底生生物が変化する、帯状分布構造が確認されたことです。水深1〜5メートルにはダンベイキサゴ、バカガイが圧倒的に優占し、チョウセンハマグリの生息も確認されました。水深5〜8メートルにはトゲトゲツノヤドカリとハスノハカシパンが優占していました。水深8〜10メートルにはヒラモミジガイとツメタガイが優占し、キサゴもこのゾーンに生息していました(図3)。そして、その境界は極めて明瞭で、海岸線に並行に、まさに帯のように分布していたのです。同じような帯状分布は潮間帯でよく知られているので、今回の調査をする以前から、波の下でも同じような帯状分布が存在しているだろうとは予測していました。しかし、ここまではっきりとした帯状分布が確認できるとは思っていなかったので、大変驚きました。

調査地域(藤沢市鵠沼〜辻堂沖)に おける底生生物の帯状分布の模式図. 採集された生物の総個体数に対する,ダンベイキサゴとバカガイの占める割合の変動.
図3. 調査地域(藤沢市鵠沼〜辻堂沖)に おける底生生物の帯状分布の模式図. 図4. 採集された生物の総個体数に対する,ダンベイキサゴとバカガイの占める割合の変動.

二つ目は、同じ場所の、同じ分布帯に、過密状態といってもいいほど極めて高密度に生息している、ダンベイキサゴとバカガイの関係です。ある調査地点を例にとり、得られたサンプル全体に占める、両者の重量比の変動に注目してみました(図4)。ダンベイキサゴとバカガイは、どちらか一方が減少すると、その分他方が増加する、という拮抗関係にあることがわかります。その変化は急激で、あっという間に優劣が逆転することもあるのですが、もう片方が完全に駆逐されてしまうのではなく、何とかギリギリのバランスを保ちながら、復興の時をうかがっているようなのです。そして、この変化は長雨や、放水路や小河川の河口など、淡水の影響と、おそらくは堆積物の粒度と関係があり、淡水の影響下でバカガイが多く生息することもわかってきたのです。このような現象は、1960〜70年代にも経験的に知られており、当館の松島義章名誉学芸員や、調査に関わった漁師さんからも当時の様子について聞くことができました。

このギリギリの絶妙なバランスが保たれる背景には、降水量だけではなく、様々な地象水象に加えて、生活排水や河川改修、養浜事業といった人間活動の影響も関係しているのでしょう。これに加えて、昨今話題の移入生物や、人為的な環境操作がさらに影響を与えたとしたら、そのバランスがどう変化していくかは予測できません。まして、同じようなことが希少種や特殊な環境に生息する生物の身の上に起こったとすると、戻ることのできない破滅への道を歩むことも考えられます。今回の調査は、そのような生態系の持つ危うさを実感させ、改めて自然の価値を深く認識させるものになりました。

この調査は、神奈川県西湘地区行政センター水産課と藤沢市漁業協同組合との共同調査に参加させていただき、実施したものです。調査の機会を与えてくださった同センターの利波之徳さん(現・環境農政部水産課)と山本章太郎さん、同組合の組合長はじめ漁業者の皆さんに心から感謝申し上げます。


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