1999年12月15日発行 年4回発行 第5巻 第4号 通巻第19号 ISSN 1341-545X
Vol.5, No.4 神奈川県立生命の星・地球博物館 Dec.,1999
![]() 上:横断面の顕微鏡写真オープンニコル 下:横断面の顕微鏡写真クロスニコル |
![]() 展示室の珪化木 |
中生代三畳紀後期
アメリカ合衆国アリゾナ州アダマーナ
同定:鈴木三男教授(東北大学理学部付属植物園)
木材が地層中に埋もれている間に、地下水に溶けた珪酸によって、組織が二酸化珪素(SiO2)に置き換えられた化石のことを珪化木といいます。
珪化木の組織を調べるには、上の横断面の他に、横断面と直行する放射断面と接線断面の観察も必要ですが、紙面の都合から横断面だけを示しました。オープンニコルで茶色く見えるのが細胞壁で、白い部分は細胞が入っていた部屋です。この部分をクロスニコルで見ると灰色に見えて、SiO2で満たされていることがわかります。
このアラウカリオキシロンの珪化木は、南半球だけに分布している現生のナンヨウスギ属(Araucaria:裸子植物)によく似ています。ナンヨウスギの仲間は、中生代三畳紀のはじめ(およそ2億4千万年前)頃出現し、世界中に分布していました。北半球では白亜紀後期(およそ8千万年前)に絶滅し、それ以降は南半球だけに見られます。
昭和天皇は明治34年(1901)4月29日に御降誕、父君の大正天皇が大正15年(1926)12月25日崩御の直後、歴代124代の天皇として即位。その後、昭和64年(1989)1月7日午前6時33分、皇居内・吹上御所で崩御された。歴代天皇中で最長62年有余の在位期間であり、かつ最長寿の87歳であった。
昭和天皇の生き切られた明治・大正・昭和の三代は日本のまさに激動の時代で終始し、その間に不幸な戦争も体験する。
そこで本稿では、昭和天皇が天皇としての公務を最優先されつつも、動植物の採集や、吹上御所の書庫にある生物学関係の書物を繙かれたり、皇居内の生物学御研究所で海洋生物や植物の分類の御研究に専念されたりといった日常生活を大切にされておられた生物学徒としての一面を紹介する。
父君の嘉仁(よしひと)親王が大正天皇に即位後、迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(昭和天皇)が皇太子となり、大正3年(1914)4月2日、学習院初等科を御卒業。ついで同年4月1日に設置された東宮御学問所(総裁は東郷平八郎)で、同年5月4日より同所で裕仁親王の本格的な帝王学の勉学が始まった。
学ばれた教育内容は、倫理・歴史・地理・国語・漢文・理科・数学・仏語・馬術・武課と多岐にわたっており、東宮御学問所での学業は大正10年(1921)2月18日をもって修了され、役割を果たした同学問所は同月27日に廃所される。
特に裕仁親王が関心と興味を抱かれたのは服部広太郎(理博)から受けた理科(生物学)の授業で、やがて昭和4年(1929)から本格的な生物学研究を開始された。昭和天皇のライフワークとなる研究テーマのヒドロゾアの分類の研究も服部のすすめを受け入れたもので、その経緯を自ら以下のように語っておられる。
「ヒドロゾアの研究は服部広太郎(東宮御学問所時代から皇太子に生物学を教授した)のすすめによってしたことです。その当時は研究する学者が日本では少ないことですから、競り合うことのないように思われましたから始めました。」
(昭和61年4月15日・在位60年式典を前にした記者会見での御発言)
こうして昭和天皇の研究活動は、皇太子時代から昭和初期までは赤坂離宮(現在・迎賓館)の生物学御研究所ですすめられた。
この御研究所は大正14年(1925)8月に建設されており、その建坪は45坪、内部は実験室・図書及び器機室・飼育培養室等に分かれ、付属施設としては貯蔵室・格納室が設けられていた。また前面には実験圃場もあった。
その後、昭和3年(1928)9月には宮城内に240坪の研究室が新設されており、同年1月28日付の『読売新聞』には次のような見出しの記事が掲載されている。
「聖上親しく鏡下に、変形菌を発見遊さる、―赤坂離宮内苑のムクエノキから採取され、―御指導の服部博士も御熱心な研究に恐躍、―日本の学界へ偉大な御寄与。」
そして、本紙面には生物学研究に取り組まれる一生物学徒としての昭和天皇の一面も紹介されている。
昭和天皇の御研究は動物や植物を対象に広範にわたっているが、中心となるものは海洋生物・ヒドロゾアの分類であった。
腔腸(こうちょう)動物(クラゲやイソギンチャクはその代表的な海洋生物)中、もっとも生物進化が原始的である生物群のヒドロゾアについては、専門とする研究者は、当時の日本ではきわめて少数であった。
採集先は主として神奈川県にある葉山御用邸の前に拡がる相模湾で、ほかに沼津御用邸や伊豆の須崎御用邸に接した駿河湾や相模灘も採集先としては重要で、半世紀にわたる研究活動の結果、採集された標本は実に5,000点・400種にも及び、昭和天皇の終生の願いは、採集した数多くの標本の分類の仕事とその集大成であった。
あわせ植物研究についても深い関心を寄せておられた。
大正15年(1926)に栃木県の那須にできた御用邸では、那須高原の植物に親しみをもたれ、御用邸付近の植物を採集され、標本にして牧野富太郎(理博)に属や種の決定の件で指導を受け、かつ、変形菌(腐った木やキノコ類に発生する下等植物)の研究も始めており、昭和天皇の研究主題は“海のヒドロゾア”と“陸の変形菌”の二つとなっていく。
なお植物に関連しては、戦後の昭和23、4年頃からシダ植物以上の高等植物にまで研究対象を拡げられており、他の研究者と協力して出版された『那須の植物』(三省堂・昭和37年)は植物関係の第一作となっている。
戦前・戦中の昭和天皇の研究活動は、毎週土曜日、戦後は毎週土曜日のほか月曜日と木曜日の午後、公務に支障のない限り持続されていたが、戦争中は軍関係者からは「どうも陛下は軍事に熱心でない。そんな生物の研究よりも帝王の学をもっと考究されればよいのに、けしからん」との声が出る程で、決して研究活動を中断させることはなかった。
当時の昭和天皇にとっては研究に没頭できる生物学御研究所での生活だけが、文字通り「現人神(あらひとがみ)」から「人間」天皇にかえることができる、かけがえのない大切なひとときであったのだろう。
事実、戦後に侍従次長を勤めた鈴木一の昭和天皇の御研究に関する回想をみると、研究に従事する当日の生き生きした昭和天皇の御姿が浮かび上がってくる。(『朝日新聞』平成元年1月8日付)
「お足の運びがほかの日と違う。いとも軽やかでしかも早い。さっそうとした青年の足どりだった。」
さらに同一紙面には、納得のいくまで調べ続けるという研究者に不可欠な資質が、少年時代からすでに培われていたことも紹介されている。
皇居内の生物学御研究所には、学習院初等科六年の大正二年夏、栃木県那須で採集された植物の標本までが大切に保管されている。(中略)「僕(秩父宮)などは最初のうちこそ熱心に一々名を検(しら)べもしますが、数が多くなると面倒になり、いい加減にしてしまいます。ところが、陛下(筆者注・昭和天皇)は決してそんなことはなく、小さな虫でも一々名をお検べにならないとお気がすまない。標本を整理するにも僕などが多少図案的に見た目にきれいなように配置するのに、陛下は必ず一々種類によって分類してお並べになるものですから容易なことではありません」(秩父宮『御殿場講話』)といわれるように、陛下は小さいときから納得のいくまでお調べになっていた。
さればこそ、昭和天皇が御生涯をかけて採集・分類された動植物研究の御労作が26冊にも達し、学界に大きく寄与して現在に及んでいるのである。([表]参照)
昭和天皇は昭和7年(1932)からリンネ協会(在ロンドン)の名誉会員であった。 リンネ協会は動植物の科学的命名法の確立者かつ現行の分類学の近代的体系の創始者で、生物学者のカール・フォン・リンネ(Karl von Linne, 1707〜1778)の名前にちなみ名付けられた分類学の学術団体である。
名誉会員に推挙された経緯は、昭和天皇御採集の変形菌の標本の同定を英国のリスター女史に依頼。女史はそこから2つの新種を発見し自らの業績として世界に発表した。そこで種蒔く人として貢献された昭和天皇は、リンネ協会より名誉会員に推され、さらには長年の地道な研究活動も評価されてロンドンの王立協会<ロイヤル・ソサエティ>の会員にも推挙されたのである。
また、最晩年の生物学徒としてのエピソードはきわめて強烈である。
すなわち、生前には残念ながら刊行をみなかった『皇居の植物』の書物のことで、昭和63年(1988)9月、十二指腸通過障害を取り除くためのバイパス手術を受けられた直後にあっても、本書に昭和天皇はもっとも力をそそがれていた。吐血が続き病床に伏されながらも、侍従に原稿の記述の追加をしばしば指示されるなど、息を引き取る直前まで、書物の内容を吟味し続けておられたというのである。
昭和天皇の気迫と一途なまでの御執念には、同じく研究者の道を歩む筆者自身、厳粛な思いと感動と共感、加えて大いなる励ましを覚えるばかりである。
昭和天皇の生物学研究、特にライフワークの「ヒドロゾア」研究の総体としての評価については、山田真弓(北海道大学名誉教授)が次のように語っている。(『朝日新聞』平成元年1月8日付)
「陛下のヒドロゾア研究は、相模湾という限られた海域で、非常に長い年月にわたって従事し、観察された精緻<せいち>なもので、こうした例は国際的にもあまりなく、学問的な意義は大きいと思います。 ご研究の態度も、世界の文献に広くあたられ、慎重で、奥が深かった。生物学御研究所に蓄積された標本の豊富さは、むろん日本一でしょうし、国際的にも価値あるものと信じます。
またヒドロゾアの研究の過程で採集されたバラエティに富んだ相模湾の生物の標本を、専門の学者に提供されたことも、学界にかけがえのない貢献だと思います。」
ここでいえることは、継続は力と金(ゴールド)であることを身をもって実践された昭和天皇の研究に取り組む執念と真摯かつ誠実さとは、後進の者への大きな励ましと勇気づけとなることである。
なお昭和天皇の生物学研究の諸成果はそのまま今上陛下の魚類学、常陸宮正仁親王殿下の下等動物の腫瘍(しゅよう)研究(金魚の赤色腫(せきしょくしゅ)は特に著名)、さらには秋篠宮文仁親王殿下の東南アジアでの淡水魚の系統分類学及びナマズ類の御研究に引き継がれてきていることを、最後に付記しておきたい。
表 昭和天皇御研究書一覧
(1)動物
1.ヒドロゾア研究(単独)
書 名 著者 発行年月 出版社 日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討 昭和天皇 昭42.2 保育社(非売品) 天草諸島のヒドロ虫類 同上 昭44.9 同上 カゴメウミヒドラ科Clathrozoon Wilsoni Spencerに関する追補 同上 昭46.9 同上 小笠原諸島のヒドロゾア類 同上 昭49.11 同上 紅海アカバ湾産ヒドロ虫類5種 同上 昭52.11 同上 伊豆大島および新島のヒドロ虫類 同上 昭58.6 同上 パナマ湾産の新ヒドロ虫類ベイヤーウミヒドラ 同上 昭59.6 同上 相模湾産ヒドロ虫類 同上 昭63.8 丸善(同) 2.共同研究
相模湾産後鰓(こうさい)類図譜 昭和天皇のご採集の資料を基に、馬場菊太郎大阪学芸大教授が取りまとめ 昭24.9 岩波書店 同 補遺 昭30.4 同上 相模湾産海鞘(ほや)類図譜 同、時岡隆京大教授 昭28.6 同上 増訂那須産変形菌図説 同、服部広太郎理博 昭39.10 三省堂 相模湾産蟹(かに)類図譜 同、酒井恒横浜国大教授 昭40.4 丸善 相模湾産ヒドロ珊瑚(さんご)類および石珊瑚類 同、江口元起東北大教授 昭43.4 同上 相模湾産貝類 同、黒田徳米、海部忠重、大山桂各理博 昭46.9 同上 相模湾産海星類 同、林良二富山大教授 昭48.12 保育社(非売品) 相模湾産甲殻類異尾類 同、三宅貞祥九州産業大教授 昭53.10 同上 伊豆半島沿岸および新島の吸管虫エフェロタ属 同、柳生亮三広島大名誉教授 昭55.10 同上 相模湾産蛇尾類 同、入村精一横浜市立戸塚高教諭 昭57.3 丸善 相模湾産海胆類 同、重井睦夫理博 昭61.4 同上 相模湾産海蜘蛛類 同、中村光一郎東大海洋研究所研究生 昭62.3 同上 (2)植物
那須の植物 昭和天皇と植物学者たち(本田正次・木村有香・北村四郎・原寛・伊藤洋・佐藤達夫) 昭37.4 三省堂 同 補遺 昭38.8 同上(非売品) 那須の植物誌 昭47.3 保育社 伊豆須崎の植物 昭55.11 同上 那須の植物誌続編 昭60.11 同上 <備考>26冊すべて「生物学御研究所編」となっている。
出所:『朝日新聞』(平成元年1月8日付け)の記事を中心に作成。
![]() 図1(高校生用アンケート) |
中学・高校生の理科ばなれが指摘されて久しくなりますが、高校生や大学生は博物館の利用も少なく、これは博物館一般に見られる傾向です(自然科学のとびらVol.3
No.2参照)。
そこで、平成8年4月より東海大学相模高校1年生の当館見学の際にアンケート調査への協力を依頼し、「高校1年生」という限られた年齢のまとまった数の意見を聞く貴重な機会を得ました。このたび、4年間のアンケート結果がまとまりましたので報告します。ちなみに当館の来館者数のうち高校生の占める割合は、開館以来3%台で推移しています。
まず、平成8年度の調査方法は、学校が用意する地学科、生物科の課題プリント末尾に、当館の特に印象に残った展示物を各科2点ずつと、見学後の感想を記入してもらうという簡単なもので、翌9年度からは、選択肢を設けたアンケート形式(図1)に変更しました。集計総数は、平成8年度2167点、9年度934枚、10年度534枚、11年度456枚です。
図2 H8印象度(地学科、生物科合計) |
図3 H8感想文 |
印象に残った展示物を展示室別に集計した結果、図2に示すように「地球」と「生命」展示で約6割を占めました。この印象度の偏りは、第一には地学科、生物科といった分野別の設問自体により生じたものですが、その内訳(図は割愛)も、地球展示では水晶などの鉱物類が3割、アンモナイトの壁などの化石類が5割、同様に生命展示では恐竜が4割、多種多様な動物群が3割と偏っています。スケールの大きさに定評がある当館ですが、この結果を見ると、地球の生成を伝える巨右群(印象度6%)がまず目に飛び込んでも、次に程よい高さにあり、美しい結晶形を持つ鉱物群に吸い寄せられると、人々の印象はそのまま美しいものの方に残るようです。生命展示では、骨格標本の大きさや展示物の数そのものが、スケールの大きさを裏付けていることを、これらの数値は表していると言えるでしょう。
一方、約4割の生徒にみられた感想文(207件)は、図3のように分けて整理しました。まず、“よかった”、“楽しかった”という、単にその一語に代表される第一グループ、そして第二は、“見たいと思っていたものが見られた”あるいは“実際に見てみると、思っていたものと違っていた”など、自己の中にある情報と照合することで印象を深めたと思われる「再認識」グループです。特に展示室の記入のないこの第一、第二グループは、かなり似通った傾向の大きな塊を作っていると考えます。
つぎに“勉強になった”などの「学習成果」を挙げた第三グループ、そして“説明が解りやすかった”、“照明が暗かった”、“触った”など「館の機能」に言及した第四グループ、「神奈川」や「ジャンボブック」等の各展示室を挙げた第五グループです。
「神奈川」展示については、“身近な場所を見直した”といった感想があり、地域博物館の役割が評価されている一例ですが、図2に示す印象度が13%であるのに対し、感想文の中では2%に留まっています。
こうした中で、図2の印象度では1%に過ぎなかった共生展示が、感想文で10%を占めていることは、高校生の共生分野への関心度の深さとして捉えることもできそうです。実物展示の難しい共生展示室は、吹き抜けの広スペースを占める常設展示の最後になり、見学疲れも手伝って、印象的には不利と思えます。しかし、環境というレベルから問題を提示しようとする当館の姿勢への評価や、中学時代の環境学習の成果等、教育現場における環境問題の浸透度を示す一例として、次のものを育てつつあるのではないかと期待させるものがあります。
図4 H9、10、11分野別関心度 |
翌平成9年度から11年度の設問は、見学者本来の分野別関心度を問うものに変更し、その集計において年度や性別による目立った違いが見られないため、紙面の都合もありグラフは一つに統合しました(図4の右半分が地学分野、左半分が生物分野の関心度を示します)。
地学分野への関心度は、「宇宙」、「地球誕生」が半分を占めています。印象度の内訳では5割と高い数値を示した「化石」が、図4の中で示す関心度では10%と低い値です。「化石」については、関心の高さが印象を深めるのではなく、その触れる展示方法に説得力があった例といえるでしょう。
生物分野への関心度では、「生命誕生」、「生物進化」、「恐竜」が共に約2割ずつを占めていますが、展示印象度の内訳では、「生命誕生」は数字上は0であり、恐竜や動植物の展示群に圧倒された形と言えそうです。
「海藻・菌類」については、循環システムに欠かせないものへの関心を示すものとして、約3%の数値を得ています。
こうした中で、男女比に違いが見られたのが共生分野への関心度です。図5中、男女とも同率の高めの関心を示す項目と、少ないながら毎年ほぼ均等の数値を分け合う項目があるのは、一般的な大テーマ、小テーマをそのまま表しており、教科書を始め、社会的な取り上げ方を示していると思われます。その中で男女差の表れたのが「エネルギー問題」です。共生分野の各項目は、日頃のニュースタイトルとなり得る個別の現象とも言えますが、いわば、すべてがエネルギー問題と言える中で、展示スポットが無いにも係わらず、男子の関心の高さが「エネルギー問題」に集まるのは、彼らに身近なバイクや車への興味から繋がるものかもしれません。
ごく身近なエネルギー問題から、一気に「宇宙」、「地球誕生」へと飛躍する関心の道筋を、根気よく埋めてゆく必要性を感じます。
![]() 図5 H9、10、11、共生への関心(%) |
図6 H9、10、11、次回の目的(平均値) |
図7 博物館のイメージ(H11) |
来館回数については、予測される通り、初回の生徒が年度ごとに、88→81→74%と減り、2回目が6→13→15%、4回目以上で横這いから減少傾向になります。
前出の図2、3が示しているように、「ジャンボブック」展示はそれぞれに1割近くを占め、常に一定の支持率を得ているため、その展示替えと案内を積極的に行うことで、4回目以降の来館の動機付けになることが期待されます。
また、次回の来館目的(図6)を見ると、“シアターでの鉱賞”を境に、両極を取って“学習派”と“気分転換派”に分けることができそうです。つまり、学習や展示見学等の具体的な目的を持って来館する層(図3でいえば第三グループ以降)と、学習性を無視はしないがその隙間を楽しみに来館するとでもいえる層(図3では第一、第二グループ)に二分される傾向です。これを別の方向から明確に示したのが、博物館のイメージを表した図7で、“学習目的”が半数を占めています。博物館とは、気分転換でも利用したいが、イメージとしては学習の場として強く認識されているのは明らかですが、あと半分にも別の可能性があると言えます。
さらに、図は割愛しますが、“次は誰と来たいか”という意向について、“友人や家族と(45%)”、“一人で(8%)”に対し、毎年約半数の47%が“わからない”と答えていたり、5項目の選択肢があるにもかかわらず、“特に意見はない”を選んだ生徒が半数の46%という結果の出た設問もあります。答えてくれる生徒は毎年変わりますが、ひとくくりに受験世代の忙しい高校生にとっても、明言を避けるデリケートな世代で、自意識を主張するか否かの二分化がある、あるいは一人の高校生の中でも揺れている、そんな姿が回答の中にも見え隠れしています。
今回は新入生という、まだ中学生の心を残しての高校生1年生を対象に調査を進めました。学校主導の見学にはどうしても学習としてのイメージが強くなる分、博物館側は楽しめて魅力ある展示へと心掛けるとともに、学校への働きかけも重要になってくるでしょう。
最後になりましたが、東海大学相模高校の門田真人先生をはじめ、ご協力いただきました先生方に厚くお礼申しあげます。
1999年10月に、オーストラリアに地質調査に行きました。調査地は、北部オーストラリアのダイヤモンド鉱山と、南部オーストラリアのフリンダース山脈です。移動がハードな調査でしたが、地質学的に非常に面白いものがたくさん見られたので紹介します。
![]() 写真1.セスナ機から見たアーギル鉱山の露天掘り |
西オーストラリア州の北東部にはキンバリー地塊と呼ばれる、21〜14億年前にできた古い地層が広がっています。キンバリー地塊の中には、アーギル鉱山というダイヤモンド鉱山があります。アーギル鉱山へは、カナナラという町からツアーとして見学することができます。私たちはセスナ機を利用するツアーで訪れました。この鉱山は、露天掘りが行われております(写真1)。ダイヤモンドはキンバーライトという火山岩から産出しますが、アーギル鉱山では、ランプロアイトという火山岩から産出します(写真2)。ダイヤモンドがランプロアイトから出ることは非常にまれです。ランプロアイトとキンバーライトのマグマは、地下深くのマントルが溶けることによってできるという共通点があります。キンバーライトのマグマには二酸化炭素がたくさん含まれていますが、ランプロアイトのマグマにはほとんど含まれません。ランプロアイトからダイヤモンドが出るということは、学術的に興味深いことなのです。アーギル鉱山は、世界的にも非常にまれなピンク色のダイヤモンドを産出することでも有名です。この鉱山では、露頭観察とダイヤモンドの展示をたっぷりと見ることができました。
![]() 写真2.アーギル鉱山のランプロアイトの露頭 |
![]() 写真3.ストロマトライトの露頭(6億2千万年前) |
フリンダース山脈は、南オーストラリア州のアデレードの北約500kmに南北に連なります。調査は、アデレードの北約300kmにある、ポートオウガスタという町からレンタカーを利用しました。フリンダース山脈を構成する地層は、ほぼ南北に広がります。山脈の方向と地層の方向が同じために、山脈を東西に横切る渓谷では、地層の断面を連続して観察することができます。特に、フリンダース山脈中部にある、ブラキナ渓谷では、10kmにわたって、先カンブリア代から古生代カンブリア紀までの、約6億3千万から5億2千万年にわたる連続地層を観察することができます。この渓谷は、Geological trail(地質小道)になっており、いたるところに地質に関する説明のパネルが置かれています。
ここで見ることができたものを時代の古い順に並べますと、非常に浅海のストロマトライトを含む石灰岩(写真3)とシルト岩層、泥岩とレキ岩からなる氷河堆積物層、暖かい浅海でできた層状ドロマイト層、浅海でできたシルト岩と頁岩層、浅海でできた白色クオーツアイト(珪岩)層、深海でできた頁岩とシルト岩層(隕石の衝突で飛び散ったインパクタイトを含む)、深海から浅海に移り変わるときにできた緑色石灰岩とシルト岩層、浅海でできた赤色砂岩層、エディアカラ化石群を産する白色砂岩層、1cm位の巣穴の化石(Worm burrows)(写真4)を含む非常に浅い海でできた砂岩層、暖かい浅い海でできたサンゴ化石を含む石灰岩層、浅海でできた化石を大量に含んだ石灰岩層などが見られました。10kmの調査で、1億年以上にわたる、様々な堆積環境の地層を見ることができ感動しました。
![]() 写真4.Worm burrows. 古生代カンブリア紀の巣穴の化石 |
今回の調査は、広範囲にわたっていろいろなものを見てまわるというものでした。それぞれが日本では見ることができない、壮大で興味深いものばかりでした。地質的なものばかりではなく、エミューやカンガルー、エリマキトカゲなど、野生動物もたくさん見ることができました。
前号では谷戸・谷津という地名が関東地方に多く残されている事を記しました。これらの地名語はかつては余り知られていませんでしたが、ナチュラリストたちが自然保護や保全を論じる著作のなかで用いるようになってから次第に一般にも広く知られるようになってきました。この辺の事情は以前取り上げた里山の語と似ていますが、里山が比較的近年の造語であるのに対して谷戸・谷津は歴史性をもっています。身近な自然である里山が見直され、保全の動きの広がりとともにその重要な構成要素である谷戸・谷津もクローズアップされてきたという事でしょう。
この谷戸・谷津と似たような地形で迫(さこ)と呼ばれる地名があります。迫とは山の尾根と尾根の間、谷あいの行きづまりの場所のことで、そこに開かれた田は迫田(さこた)と呼ばれてきました。前号でも引いた『新日本地名索引』(アボック社出版局)によれば迫の付く地名は岡山県以西の中国地方と、九州地方に数多く残されています。つまり関東地方で谷戸・谷津と呼んでいるものにほぼ相当する地形を岡山県以西の中国地方と、九州地方では迫と呼び習わしてきたというわけです。
ところで、冒頭にも記したように谷戸・谷津という地名語が里山の保全の必要性を論じる際にしばしば取り上げられるのに対して、迫という地名語はほとんど見かけません。どこかで使われていないものかと自然史関係の図書・雑誌や中国・九州地方の博物館刊行物等を丹念に調べてみましたが残念ながら発見できませんでした。
全国的には自然保護・保全の意識の昂揚でなかで里山の語が定着し、関東地方にあっては自然を守り残していこうという思いがその地方に残された谷戸・谷津という地名語をはからずも浮かび上がらせてきたように、迫という地名語も自然を守る上でのキーワードとして今後中国・九州地方において浮上してくるかもしれないと期待しているところです。
理学博士 酒井 恒(さかい・つね;1903-1986)先生は、神奈川が世界に誇る偉大な動物学者であり、甲殻類の研究に関しては、日本で酒井先生の右に出るものはいない、といっても過言ではありません。先生は、現在日本で知られている1,000種近いカニの、約8分の1にあたる125種類を超える種を、新種として記載しました(詳しくは先の特別展「カニの姿―酒井コレクションから―」の図録をご覧ください)。
魚や甲殻類など、水の中で生活する生きものは、生きているときの色彩を保存するのが大変困難です。保存のため液浸標本にすると、アルコールの脱色作用によって色彩は失われてしまいます。しかし、分類学的研究においては、標本の持つ形態的情報だけではなく、色彩的な情報も重要です(詳しくは瀬能学芸員が1994年に(旧)神奈川県立博物館だより, Vol.27, No.1に紹介した記事をご覧ください)。標本の色彩の意義を、大変重要視されていた酒井先生は、採集したカニを液浸標本や乾燥標本として保管する一方で、細密画による色彩の保存にカを注がれました。当時はカラー写真の技術が未完成だったことや、一般にそれほど普及していなかったことなどから、細密画は、色彩を記録するための切り札だったのです。
この細密画は、先生自らの手によってペンで下書きされ、奥様が水彩絵の具で彩色されたものです。そして、先生の研究の集大成でもある、大著「日本産蟹類」の図版としても使用されました。先生が相模湾で採集し、新種として報告したサガミトゲコブシガニやマナヅルノコギリガニはもちろんのこと、ガザミやイソガニといった、ごく普通の種も、驚くほどていねいに描かれ、彩色が施されています。これらの細密画からは、神奈川を愛し、相模湾を愛し、そして何よりもカニを愛した先生の情熱が伝わってきます。
先生が集められた標本は、1968年から1972年にかけて当館の前身である神奈川県立博物館に寄贈され、当館に引き継がれています。これらの標本は、先生の愛弟子にあたる村岡非常勤学芸員(元学芸部長)によって、小田原利光博士寄贈の小田原コレクションとともに大切に管理されてきました。細密画は、先生が自ら整理の上、1985年から神奈川県立教育センターに順次寄贈されてきましたが、先生は寄贈完了の日を迎えることなく、帰らぬ旅路につかれました。その後、先生の遺志と奥様のご好意によって、1987年に寄贈の手続きが完了しました。
細密画は教育センターで大切に保管され、一部は展示され、一部は研修等にも利用されていました。博物館では、この特別展を機に、標本とあわせて博物館に収蔵し、甲殻類研究に利用したいことを申し入れ、ご遺族のご了承を得て、正式に移管の手続きがなされることになりました。
分類学者の眼が捕らえ、精巧な筆致で再現された細密画は、学術的に価値が高いばかりではなく、芸術作品としても完成された最高傑作です。約30年振りに再会した、この世界でたった1セットのオリジナルの細密画と貴重な標本とを、共に収蔵できることを大変誇りに思うとともに、積極的な活用に努めたいと考えています。
今回の細密画の移管にあたっては、酒井先生のご遺族である酒井敦生さん、酒井勝司さんのご配慮を、教育センター所長の内藤昌孝さん、同センターの山川宏さんをはじめ生物担当研修指導主事の皆さんのご協力をいただきました。記して心よりお礼申し上げます。
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| 酒井先生が新種として記載したサガミトゲコブシガニ Arcania sagamienis Sakai, 1969(上)とマナヅルノコギリガニ Schizophroida manazuruana Sakai, 1933(下).細密画.和名・学名共に神奈川の地名にちなんで命名されました. |
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| 相模湾にごく普通にみられるガザミ Portunis(P.) trituberculatus (Miers,1876)(上)とイソガニ Hemigrapsus sanguineus (de Haan,1835)(下).細密画. |
![]() ドロイシガニ Zalasius dromiaeformis (de Haan, 1839). 細密画.生時は軟毛に覆われています(図の右側).この軟毛を除去すると(図の左側),甲表面には溝や顆粒が認められます.細密画では一枚の絵でこの両者の特徴を表現することができます. |