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【企画展】+2℃の世界~縄文時代に見る地球温暖化~

【企画展】+2℃の世界~縄文時代に見る地球温暖化~

この展示は終了しました

Contents 

UPdate

  • 2004年12月23日 ホームページアップしました
  • 2005年1月12日 ワークテキストPDF版アップ・ワークテキスト正誤表更新
  • 2005年2月1日 講演会案内更新
  • 2005年2月10日 神奈川新聞掲載記事アップしました
  • 2005年3月10日 お問合せ多数!につきワークテキスト配布を開始しました
  • 2005年5月17日 講演会要旨UPしました

概要・趣旨

地球は、その46億年の歴史の中でダイナミックな気候変動をくり広げてきました。寒い地球(氷期)・暖かい地球(間氷期)をくり返してきました。

およそ1万年前に氷期から間氷期へ移りかわり、およそ6000年前に温暖化のピークを迎えました。その温暖最盛期、神奈川では、現在より平均海水温が約2℃、海面が約4m高くなりました。これが“縄文海進”とよばれるできごとです。

海面の上昇により、川崎、横浜、横須賀、逗子、鎌倉、藤沢、茅ヶ崎、平塚、小田原などの低地は海面下となりました。

縄文時代の地層や貝塚に残された貝をくわしく調べることは、当時の海岸線の移動の様子や海の古環境を知ることにつながりました。過去の温暖化を知ることは、これからの地球温暖化を考えるヒントになるでしょう。

縄文時代の地球温暖化は、氷期から間氷期へ移る自然のサイクルでした。しかし、いま起きている地球温暖化は、人為的な要因が大きいと考えられています。温室効果ガスである二酸化炭素の濃度は、現在すでに過去数十万年間に知られる値を大幅に上回っています。

この企画展では、かつて私たちの祖先が経験した、縄文時代の温暖化の様子を例に、地球温暖化にともなう環境変化について考えていきます。

講演会

「温暖化に伴う環境の変遷」終了しました

日にち 2005年2月11日(金曜・祝日)
会場 当館1階 ミュージアムシアター

講演会要旨(121KB)

タイムテーブル

13時から13時10分 青木淳一 館長から挨拶
13時10分から14時

講演1「永久凍土の融解と地球温暖化」
福田正己 氏(北海道大学低温科学研究所)

質問に対する回答(111KB)

14時5分から14時55分 講演2「白化するサンゴ礁と縄文の海-サンゴ礁からみる環境変遷と地球温暖化-」
茅根 創 氏(東京大学大学院理学系研究科)
15時から15時50分

講演3「地球温暖化による海面上昇とアジアの三角州」
斎藤文紀 氏(産業技術総合研究所地質情報研究部門)

16時から16時20分 質疑応答等

展示案内

展示案内Map(181KB)

地球の気候リズム~くり返してきた氷期/間氷期~

地球は、46億年の歴史の中でダイナミックな気候変動をくり返してきました。何億年というスケールでみると、地球が氷の塊になったり、あるいはサウナのような状況が何千万年間も続くといった気候の大変化がありました。この数十万年の間では、暖かい地球(間氷期)と寒い地球(氷期)がリズミカルにくり返しています。そして、その気温変化にあわせるように、二酸化炭素の量も増えたり減ったりしてきたことがわかってきました。今、そして未来の地球を考えていくために、過去の気候リズムを追っていきましょう。

過去の温暖化と環境~急激におこった縄文海進~

氷期から間氷期にうつりかわる急激な気候変動は、この数10万年間の間に何度もありました。約1万年前に氷期から間氷期となり、およそ6000年前にピークをむかえた海面上昇が、いわゆる“縄文海進”です。このときの急激な温暖化と海面上昇の証拠は、神奈川県内各地に残っています。貝化石からは、当時の海の環境や年代を知ることができます。縄文海進にともない、県内各地で海の環境がどのように移りかわっていったのでしょう。さらには日本列島全体ではどうであったのでしょう。貝化石の証拠から探ってみましょう。

地球温暖化を考える~わたしたちはどう生きるか~ 

二酸化炭素(CO2)が多いほど、地球は暖かくなります。これまで自然のサイクルで気候変動をくり返してきた地球は、おそらく新たな局面をむかえています。現在おきている地球温暖化は、人為的な影響が大きな要因であるとわかってきたのです。人類の活動は、地球の二酸化炭素を増やしつづけてきました。その結果、現在の二酸化炭素濃度は、過去数10万年に知られる値よりもはるかに高いものになっています。これからは未来の地球のことを考えた行動が必要です。みなさんにおたずねします。わたしたちは、どう生きるか。

ワークテキスト(先生・生徒の勉強補助教材)

これは、2004年開催の企画展「+2℃の世界 ~縄文時代に見る地球温暖化~」において展示内容の理解を深めるために作った「ワークテキスト」です。

基本的な構成は、ひとつのテーマに対して、ワークテキスト1枚で完結しています。表面では、写真や図を使いながら、展示で見てほしい点・考えてほしい点を紹介しています。裏面では、詳しい解説や、展示室で紹介しきれなかったことを補っています。 このワークテキストは展示と独立して、単体でも地球温暖化問題について考えることができるように工夫しています。

展示室内では、入り口近くの棚においてあります。興味のあるテーマのワークテキストをお取りください。(お一人様、各テーマ1枚までにお願いします。) 展示を見に来ることのできない方のために、(企画展開催当時)ダウンロードできるようPDF版を用意しました。

ワークテキストダウンロード

目次 ページ
Ⅰ 地球の気候リズム~くり返してきた氷期/間氷期~(3MB) 1-10
1.「縄文の海は、広かった!」6000年前の神奈川の大地(2MB) 1-2
2.「過去の気温はどうしてわかるの?」深海底に残された記録(92KB) 3-4
3.「過去の気温はどうしてわかるの?」氷床コアが記録する大気の変遷(82KB) 5-6
4.「過去の気温はどうしてわかるの?」大地に残された証拠(140KB) 7-8
5.  酸素同位体ステージとは?(76KB) 9-10
Ⅱ 過去の温暖化と環境~急激におこった縄文海進~(2MB) 11-36
6.「下末吉海進ってなんのこと?」(166KB) 11-12
7.「下末吉海進の証拠って今もあるの?」(173KB) 13-14
8.「日本にいる動物はどこから来たの?」(103KB) 15-16
9.「海進で絶滅した生物はいるの?」(97KB) 17-18
10. 内湾と沿岸の環境と貝(179KB) 19-20
11. 内湾と沿岸にすむ貝(205KB) 21-22
12. 海面と貝類群集の垂直変化(239KB) 23-24
13. 「急激に上昇した、縄文の海」一万年前からの海面変化(239KB) 25-26
14.「20mもの高さまで縄文海進?」早く消えた古中村湾(559KB) 27-28
15.「黒潮にのった温暖種」縄文時代における温暖種の消長(326KB) 29-30
16. 縄文時代の化石サンゴ礁(688KB) 31-32
17. 杉田貝塚で見つかった哺乳類(177KB) 33-34
18. 吉井貝塚の断面のようす(332KB) 35-36
Ⅲ 地球温暖化を考える~わたしたちはどう生きるか~(706KB) 37-46
19.「地球の毛布!」大気の役割(56KB) 37-38
20.「地球を暑くするのは、だれ?」増える温室効果ガス(283KB) 39-40
21.「暖かくなって、何が悪い!?」地球温暖化による環境変化(81KB) 41-42
22.「これから、どーなる?」自分たちの未来を、自分たちで考えよう(52KB) 43-44
23. 過去から見る地球温暖化(285KB) 45-46

企画展ワークテキスト
「+2℃の世界~縄文時代に見る地球温暖化~」の配布について

2004年12月から2005年2月、神奈川県立生命の星・地球博物館にて開催された企画展「+2℃の世界~縄文時代に見る地球温暖化~」において作成した「ワークテキスト」について、ご希望の方に配布いたします。この内容については、当サイトにてダウンロードが可能です。

企画展ワークテキストを送付希望の方へ

下記の申し込み方法にしたがって博物館にお申し込みください。 冊子は無料ですが、送料をご負担ください。

お申し込み方法
  1. 返信用封筒(下記参照)
  2. 申込用紙(下記参照)

以上の2点を封筒に入れて、表に「企画展ワークテキスト希望」と明記の上、下記、神奈川県立生命の星・地球博物館「企画展+2℃」担当 までご送付ください。

 

【返信用封筒について】

  1. A4が入る封筒(3冊までA4封筒(角2サイズ)に入ります。)
  2. 送付先をご記入ください。
  3. 送料として必要額の切手を貼ってください。(ワークテキスト一冊分の重さはおよそ300gです。)
  4. 「ゆうメール」と朱書きしてください。(ゆうメールの送料は日本郵政のウェブサイトをご覧ください。)

 

【申込用紙について】

書式、用紙のサイズは任意です。下記の項目を明記して、封筒に必ず同封してください。

  1. 「企画展ワークテキスト」送付希望と明記
  2. 送付先郵便番号
  3. 送付先住所
  4. 送付先電話番号
  5. お名前
  6. 冊数

【申込先】
〒250-0031 神奈川県小田原市入生田499
神奈川県立生命の星・地球博物館「企画展+2℃」担当(田口)
電話:0465-21-1515 FAX:0465-23-8846

神奈川新聞掲載記事
+2℃の世界 縄文時代に見る地球温暖化

2005年1月19日から2月1日にかけて、神奈川新聞で連載された標記記事を再録しています。

1. 過去の地球 -繰り返した気候変動-


6000年前の温暖化を縄文時代に見る
企画展のポスターから

地球は四十六億年の歴史の中で、ダイナミックに気候変動を繰り返してきました。地球が氷の塊に、あるいは逆にサウナのような状況になるといった温度の大変化があったのです。そのたびに生物は絶滅と多様化を繰り返し、進化してきました。

そして、現在。おそらく地球は新しい局面を迎えています。これは過去から続く全体の流れをとらえ、その中に今の地球を位置づけることでより鮮明になるでしょう。

寒い地球(氷期)と暖かい地球(間氷期)を繰り返すリズムも、現在の位置づけを知るヒントです。氷期から間氷期への急激な地球温暖化は、この数十万年間に何度もありました。二万年前の氷期の最盛期以降、約一万年前に間氷期となり、六千年前には温暖のピークを迎えています。

この一万年前以降の急激な海面上昇がいわゆる"縄文海進"です。神奈川では現在より海面が四メートルほど、海水温は約二度高くなりました。現在では南の暖かい海にすむ貝が、当時の地層から見つかるように、貝たちの応答がかつての急激な温暖化の様子を知る手掛かりとなっています。

現在の地球温暖化は、人類の活動による要因が強いものです。温室効果ガスの二酸化炭素の増加もその一つです。その二酸化炭素濃度は、過去数十万年に知られる値をはるかに超えています。今後、地球のシステムがどのように作用するのかは予測不可能です。

地球環境問題を考えるとき、個々の情報の蓄積とともに、それらの情報をもとにして多面的に地球をとらえることが必要でしょう。それでも私たちは、地球のごく一部を見ているにすぎません。これから私たちはどう生きるか、過去の地球を知り、現在をとらえ、未来を考えていくことにしましょう。


県立生命の星・地球博物館学芸員 田口公則
※ 2005年1月19日に、神奈川新聞に掲載された記事を再録しました。

2. 氷期と間氷期 -大小のリズムで変動-


100万年前から現在に至る海水温の変化。
10万年単位ぐらいで大きな振り幅がある。

月面では空気が無く、約十五日ごとに昼と夜が繰り返されるため、一カ月のうちに表面温度が約マイナス一七〇~一二〇度の範囲で変化します。それに比べると空気があり、十二時間ごとに昼と夜が訪れる地球の表面温度は、非常に安定しているといえます。

しかし、四十六億年におよぶ地球史の中では、気候は大きなリズムや小さなリズムを持って常に変動してきました。およそ二十二億年前と七億年前には、地表のほとんどが氷に覆われた全地球凍結が起こりました。

それが解けた直後には反対に熱帯のような気候が訪れたようです。恐竜が栄えた中生代は全般に暑い時代でしたが、特に白亜紀には暑い時代が何千万年も続いたようです。

一般に氷河時代と呼ばれるのは、およそ百七十万年前から始まる新生代第四紀ですが、寒冷化は三百五十万年前頃から始まっています。その間、地球は寒暖を繰り返して、グラフはノコギリの歯のようです。

最近百万年の変化に着目すると、およそ八十万年前以降からは、約十万年周期の気候変動が顕著となっていることがうかがえます。これはミランコビッチ・サイクルとして説明されています。

しかし、気候変動が起こる原因は、太陽放射の変動や太陽からの距離の変動といった、エネルギーの入力から始まって、大陸の配置によって変化する海洋や大気の循環などのエネルギーの移動、それに地球からの放射量を左右する氷床の消長、大気の組成、エアロゾル(空気中に浮遊する微粒子)の量などが互いに影響し合っています。

それら相互のかかわりは大変に複雑で、原因と結果をはっきりと対応させることは非常に困難です。


県立生命の星・地球博物館学芸員 大島光春

※ 2005年1月20日に、神奈川新聞に掲載された記事を再録しました。

3. 下末吉期 -12.5万年前にも温暖化-

下末吉期の海岸線の様子(町田1973、当間1974、関東第四紀研究会1987、岡1991、江藤ほか1998の各論文などと、笠間私信を参考に作成)

約六千年前にピークを迎えた縄文海進よりも昔の約一二・五万年前、縄文時代よりも温暖だった時期がありました。この時期は下末吉期(しもすえよしき)と呼ばれ、その海進は下末吉海進(しもすえよしかいしん)と名付けられています。

これは横浜市鶴見区の下末吉地域にちなんだ名前です。下末吉海進も縄文海進と同様に日本各地で確認されていますが、神奈川県では東京湾側、相模湾側から海が入り込み、二俣川-権太坂-上大岡地域で、三浦半島がかろうじてつながっていたというほど規模が大きい海進でした。

下末吉海進のときにたまった地層は、下末吉層または下末吉層相当層といわれ、神奈川県東部によく保存されていて、西部ではあまり確認できていません。川崎、横浜地域では、各地で行われた道路工事や宅地開発のたびに、下末吉層が確認され、当時の海の様子が詳しく分かっています。

下末吉期の海に生息していた貝化石から、当時の様子が分かります。東京湾側の港北区菊名付近からは、バカガイ、ナミガイ、ハマグリ、イタヤガイなど沿岸砂底にすむ貝の化石が見つかっています。戸塚や藤沢ではカキ礁の化石が見つかっていて、湾奥だったことが分かります。

また、さらに奥まった泉区岡津町などでは、現在有明海などの干潟にすむハイガイの化石が見つかっていることから、干潟が発達していたことが想像できます。ハイガイは現在の関東地方の海では寒くて生活できません。ハイガイの化石が見つかったことから、下末吉期が暖かかったことも分かるのです。

一方、陸の様子も違っていました。現在では絶滅したナウマンゾウが当時生息していて、横浜、横須賀、藤沢などから化石が発見されています。


県立生命の星・地球博物館学芸員・ 樽 創 
※ 2005年1月21日に、神奈川新聞に掲載された記事を再録しました。

 4. 縄文海進 -鶴岡八幡宮下まで海-


鎌倉鶴岡八幡宮の境内。6000年前の海岸線は石段の下に達していた

鎌倉の旧市街地は滑川の低地に広がっています。低地は二方を山に囲まれ、南が由比ケ浜の海に面しており、鶴岡八幡宮を頂点とする、ほぼ二等辺三角形となっています。この滑川低地には砂と泥の軟弱な沖積層が積もっていて、そこには縄文海進を示す保存の良い貝化石が含まれています。

以前、八幡宮境内に県立近代美術館が建設されたとき、地下から大量の貝化石が出ました。さらに鎌倉市国宝館の資料館ができたときにも、貝化石や昔の海岸を示す地形がみつかりました。これらの情報をもとに市街地の縄文海進最盛期(六千年前)の地形を復元すると、滑川低地は内湾となっていたことが分かりました。

湾口が由比ケ浜で幅約二キロ、湾奥が鶴岡八幡宮の東方に達していました。湾奥までの長さは約三キロとなり、湾口の広いわりに奥行きの浅い開いた入り江でした。湾の最も奥が鎌倉宮付近に達し、干潟となっていて、ハマグリやシオフキ、イボキサゴなどが生息していました。

湾奥に近い鶴岡八幡宮境内では、大イチョウのある石段の下まで海が迫り、波が打ち寄せるきれいな砂浜となっていました。そこには現在の相模湾沿岸には生息していないタイワンシラトリやシオヤガイ、ヒメカニモリなど熱帯から亜熱帯の暖かい海にすむ貝が生息していました。

また、鎌倉大仏のある長谷の谷は幅の狭い入り江となり、ここにも泥層が厚く積もっていることが大仏の地下から明らかになりました。この泥層からも熱帯にすむカモノアシガキのほか、イボウミニナ、カワアイなどの貝化石がみつかっています。


県立生命の星・地球博物館名誉館員・松島 義章 
※ 2005年1月23日に、神奈川新聞に掲載された記事を再録しました。

 5. 貝化石を読む -湾岸の古環境を復元-


JR川崎駅前地下街アゼリアの地下に埋まった5800年前のウラカガミ貝化石

東京湾や相模湾沿岸にみられる沖積低地は、泥や砂層が厚く積もって軟弱な沖積層となっています。大きな工事などで、これらの沖積低地を掘り起こすと、保存の良い貝化石をはじめ、海にすんでいたいろいろな生きもの化石がみつかります。

中でも泥層中には二枚の殻が合わさった貝化石が埋まっていることが多くみられます。これは貝が生きていた状態のまま化石になっていることを示しています。この貝の種類と生態、その種の分布が分かれば、貝が生きていた当時の海岸線や海底の環境を知ることができます。

この点に注目して、県内に分布している沖積層中の貝化石を貝類群集としてまとめてみると、内湾から沿岸にかけ分布する沖積層には、大きく十一のグループとなっていることが明らかになりました。

例えば、鶴見川低地や大岡川の低地の奥まった地点から産出するマガキやハイガイ、オキシジミは、内湾の奥の泥干潟に生息する貝で、この地点まで縄文海進で海水が入って入り江となっていたことを示しています。ハマグリやアサリ、カガミガイは内湾でも砂泥底の広がる干潟で、砂地に浅く潜って生息しています。

この化石が沖積層からみつかれば、そこはかつて内湾の砂地の発達する干潟となっていたことを示しています。チョウセンハマグリやダンベイキサゴ、ベンケイガイの化石が沖積層から産出すれば、この沖積層は湘南海岸や房総の九十九里浜のように外海に面した沿岸に堆積(たいせき)した地層であることを知ることができます。

サザエやアワビ、トコブシなどの巻き貝化石が砂礫(されき)層から産出すれば、外海に面した岩礁海岸付近で堆積した地層であることを教えてくれます。このように貝化石の示す情報から、縄文の海の古環境を復元することができました。


県立生命の星・地球博物館名誉館員・松島 義章 
※ 2005年1月24日に、神奈川新聞に掲載された記事を再録しました。

 6. 海面変動 -100年当たり2メートル上昇-


神奈川における約1万年前以降の海面変化曲線(太帯部分)

六千年前ごろ、神奈川では海面が今よりも約四メートル高く、縄文海進のピークを迎えていました。二万年前の氷期最盛期の海面は百二十メートル低かったのですから、わずか一万数千年の間に急激に上昇したことになります。この急激な海面上昇に伴い、積もっていった堆積(たいせき)物が川崎や横浜などの低地をつくる沖積層です。

沖積層から見つかる貝化石から、貝が生きていた当時の海岸線を復元できます。たとえば、マガキは潮の満ち干する場所(潮間帯)にすむ貝です。そのカキ礁の化石が見つかれば、その場所がかつての海岸線であった証拠となります。また、放射性炭素(炭素14)が一定の速度で壊れることを利用した年代測定(14C法)から沖積層中の貝殻の年代を知ることができます。

多摩川・鶴見川低地では、沖積層の貝が多数見つかっています。その貝が見つかった深さと年代測定の値から海面変化曲線を描きました。潮間帯にすむ種の点を結んだ曲線が、海面の高さの変化を表しています。0メートルは現在の海水面の高さです。横軸は年代、縦軸は高さ(深さ)を示しています。

一万年前以降、海面が急激に上昇した様子がよく分かります。図中の八千八百年前、深さマイナス三八メートルの青点は、羽田空港地下から見つかったマガキによる情報です。八千八百年前は、それだけ海面が低かった証拠です。

約九千年前から七千五百年前にかけては、三十メートルも海面が一気に上昇しています。これは百年当たり、およそ二メートルも上昇したことになります。急激な海面上昇の後、六千年前におよそ約四メートルの高さまで海面が達しました。

神奈川の沖積層からの貝を使って、過去に起こった地球温暖化による海面上昇を具体的に示すことができました。氷期には多量にあった南極の氷が、地球温暖化により一気に解けて海面上昇をもたらしたのです。


県立生命の星・地球博物館学芸員・ 田口 公則 
※ 2005年1月25日に、神奈川新聞に掲載された記事を再録しました。

7縄文の海 -見つかった「温暖種」-


JR鎌倉駅の地下から見つかった6000年前を示すタイワンシラトリの化石

房総半島南部から相模湾沿岸の沖積低地を埋めている砂や泥層には、現在の南関東沿岸では全く生息していないハイガイやシオヤガイをはじめ、タイワンシラトリ、カモノアシガキ、ベニエガイなど、熱帯から亜熱帯の暖かい海にすむ貝(温暖種)が産出します。

これらの温暖種がいつごろ相模湾沿岸まで進出してきたか調べてみると、二回に分かれてやってきたことが明らかになりました。最初にやってきたグループはハイガイやシオヤガイ、コゲツノブエ、ヒメカニモリ、カニノテムシロガイです。

縄文海進が始まったおよそ九千五百年前に出現し、海進最盛期の、海面が現在より四メートル前後も高くなった六千年前にもっとも繁栄していたことが分りました。その後、この温暖種は生息していた干潟が海面の低下によって失われていくのにつれ、相模湾沿岸から消滅していきました。

次にやってきたグループはタイワンシラトリやカモノアシガキ、チリメンユキガイ、ベニエガイの熱帯種で、房総館山の沼や三浦の油壺で知られる礁サンゴと一緒に六千五百年前に黒潮に乗って、房総南部から相模湾沿岸まで北上してきました。

この時期は地球温暖化が最も進み、海面と海水温が高くなりました。熱帯種の貝と礁サンゴが見つかったことから、南関東では海水温が現在より二度ほど高かったことが明らかになりました。その後、これらの温暖種は四千二百年前まで生息していましたが、海水温と海面の低下によって相模湾沿岸から完全に消滅してしまいました。

ちなみに、タイワンシラトリはタイワンの名がついているように熱帯の貝です。現在生息しているところは、台湾以南の熱帯の海で、遠浅できれいな砂浜海岸にみられます。


県立生命の星・地球博物館名誉館員・松島 義章
※ 2005年1月26日に、神奈川新聞に掲載された記事を再録しました。

8. 古中村湾 -隆起した縄文期の海-


古中村湾から古中村潟への変化を示す地層

古中村湾は、大磯丘陵南西部の小田原市と二宮町の境を流れる中村川(河口付近では押切川)の低地にできた内湾です。縄文海進によって、約九千年前から中村川の谷へ海が入りはじめ、六千五百年前には現在の海岸線からおよそ二.五キロも奥まで広がる古中村湾となっていました。

昨年、中村川流域の造成工事により古中村湾にすんでいた貝化石がみつかりました。その中に、現在は紀伊半島より南の暖かい海にすむハイガイ、シオヤガイ、コゲツノブエなどが見られます。約六千五百年前の相模湾沿岸は、現在よりずっと暖かい環境だったのです。

さて、この古中村湾の貝を含む地層は、現在海抜二十メートル付近まで分布しています。このように六千五百年前の古中村湾の地層が台地の上の高さにまで分布しているのは、地震による隆起を繰り返してきたためです。特に相模湾湾奥を震源とする巨大地震によって、大磯丘陵が大きく隆起することが分かっています。

地震による隆起の結果、古中村湾から海水が退き、浜名湖のような海水と淡水が入り交じっている汽水湖の古中村潟が誕生しました。その年代は約六千五百~六千三百年前の間です。古中村潟には、これまでの古中村湾にすむ海の貝たちに代わり、汽水域にすむヤマトシジミが潟にすみつくことになったのです。

そして、縄文前期(約五千七百~五千三百年前)には、羽根尾貝塚が古中村潟の西岸につくられました。この古中村潟も、その後に続いた巨大地震によって湿地へと変化していきました。

この地域では、縄文海進による海面の上昇よりも大地の隆起量が大きく、縄文海進のピーク前に海が退くこととなりました。大磯丘陵に見られる海面の変動を考えるときには、温暖化などによる地球規模の海面変動の動きだけでなく、地域の沈降や隆起といった地震に伴う大地の動きも合わせる必要があるのです。


県立生命の星・地球博物館学芸員・田口 公則
※ 2005年1月27日に、神奈川新聞に掲載された記事を再録しました。

9. 沼サンゴ層 -北限群生地に熱帯種-


千葉県館山市香(こうやつ)に分布する約6500年前の沼サンゴ層(撮影・松島義章)

房総半島南端の館山湾には、現在、規模は小さいながら水深一〇メートル前後の海底にサンゴの群生地があります。そこでは二十五種類のサンゴが生息していて、世界で最北の群生地点として大変貴重です。

ところが約六千五百年~五千五百年前の縄文時代には、この海に現在よりはるかに規模の大きな群生があり、八十種類以上ものサンゴが生息していたことが化石調査により分かっています。化石では細かな組織構造や軟体部が失われていますので、種類を決めるのは難しいことですが、それでもこんなに多く見つかっています。

当時、実際にはもっと多くの種類がいたと想像できます。このさんご礁は、館山湾周辺の沼(ぬま)地区に分布する沖積層に化石さんご礁として残っていて、「沼サンゴ層」と呼ばれています。また、化石の中には、現在では鹿児島県以南にしかいない種類が含まれています。

サンゴは一年間で成長できる速さが海水温によって違います。そのことをキクメイシというサンゴでみますと、伊豆半島江ノ浦の現生種では三.〇一ミリ、奄美大島では四.八二ミリ、そして沼層化石では四.六一ミリです。沼層産化石の年間成長率は、奄美大島の値に近いものです。サンゴ化石と一緒にみられる貝化石からは、ベニエガイ、ヨロイガイ、オハグロガキなど、現在の南関東には分布していない熱帯種が見つかっています。

このような点から沼さんご礁が分布していた約六千五百年~五千五百年前の館山湾の環境を推定すると、現在の紀伊半島以南、南九州から奄美大島ほどの暖かな海水の洗う内湾になっていたと考えられます。


県立生命の星・地球博物館外来研究員  門田 真人
※ 2005年1月28日に、神奈川新聞に掲載された記事を再録しました。 

10. 貝塚 -環境変化知る指標に-


横須賀・吉井貝塚の貝層断面(県立歴史博物館)

土器の使用が始まった縄文時代草創期、人々は旧石器時代と同様に狩猟や採集に頼る生活を営んでいました。

やがて縄文時代早期(約九千年前)になると気候が温暖化し、海面の上昇により海岸地帯におぼれ谷の地形が発達して、内湾や入り江がつくり出され、遠浅の砂浜や干潟が拡大されました。このころから海と人間との深い結びつきが始まり、人々は河口や入り江に出て魚や貝の捕獲を行うようになったのです。

食料に用いられたあとの魚の骨や貝の殻は、彼らの住まいの周辺に捨てられました。そこにはイノシシやシカの骨や角、土器のかけら、作りかけの銛(もり)や釣り針、折れた石器なども混じっています。それらは長い時間を経て堆積(たいせき)し、貝塚を形成したのです。

横須賀市吉井貝塚は縄文時代早期末から中期に至る、およそ六千五百~四千五百年前に形成された貝塚です。上下二つの貝層からなり、下部は海進最高期に、上部は海退期に形成されました。下部貝層は内湾の潮間帯の砂地や泥地に生息するマガキ、ハイガイを主体に、オキシジミ、ハマグリなどの二枚貝が多く見られ、ここからは早期末の土器が出土しています。

上部貝層はマガキ、ハイガイなどの二枚貝が減少し、イシダタミ、スガイ、クボガイ、レイシガイ、サザエなどの波打ち際の岩礁地帯に生息する巻き貝が多く見られ、ここからは中期後半の土器が出土しています。

このことは、早期末の海進最高期に伴って発達した内湾が、中期以降になると次第に縮小され、マガキやハイガイの生息できる環境が失われていったことを示しています。

このように、同一場所における貝層の様相の違いは、時期によって、自然環境が変化していったことを知る手掛かりになっています。
 県立歴史博物館学芸部長 ・川口 徳治朗 
※ 2005年1月30日に、神奈川新聞に掲載された記事を再録しました。

11. 温室効果 -濃度増す二酸化炭素-


世界の年平均地上気温(気象庁)とハワイ・マウナロア気象観測所での二酸化炭素濃度(温室効果ガス世界資料センター)の経年変化

地球全体での平均気温は、およそ一四度です。これは地球の表面を覆う「大気」の働きによるものです。もし大気がなければ、マイナス一八度になってしまうと考えられています。

太陽からの光は、大気を素通りするので地表が暖まります。暖められた地表は宇宙へ熱を逃がすのですが、この逃げていく熱の一部が大気を暖めます。この様子が農業で使う「温室」のガラス屋根の役割に似ているので、「温室効果」といいます。

大気の成分の中で、温室効果に大きな影響を与えるのは、水蒸気です。温室効果全体の八割以上を受け持っているといわれます。水蒸気の量は、季節や場所での変動が激しく、大気中の濃度は0.1~5%と幅があります。

このほかには二酸化炭素やメタン、フロン(ハロカーボン)があります。これらは「温室効果ガス」として地球温暖化問題の原因物質として扱われています。この温室効果ガスは、観測の結果、量が増えてきていることが分かりました。

図は、二酸化炭素濃度と気温との関係を示しています。気温は紫色の棒グラフが各年の値、赤い折れ線が五年間の移動平均を示しています。二酸化炭素濃度は、波を打っている水色の線が観測値で、中央の青い線が五年間の移動平均を示しています。

気温の上昇と、二酸化炭素濃度の上昇のカーブが似ていると思いませんか? 温室効果ガス濃度の増加は、気温の上昇を招くと考えられています。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が発表した未来予測では、このまま何の対策も取らずにいると、百年後には最大で九〇〇ppmまで二酸化炭素が増大し、気温も四.五度上昇すると警告しています。
県立生命の星・地球博物館学芸員 新井田 秀一
※ 2005年1月31日に、神奈川新聞に掲載された記事を再録しました。

12. リズム -狂った?寒暖の周期-


気候の変化と神奈川の大地の変化 (企画展ワークテキストから)

地球の気候変化には一定のリズムがあるようです。過去を振り返ると、暖かい時期と寒い時期は交互にやってきています。今は暖かい時期を終え、寒くなっていく時期にあたるはずです。

図は、ここ最近の(といっても、地球の歴史の中でのことで、私たちの感覚ではずっと昔のことですが)環境の変化をイメージしたものです。矢印は、気温や海面の高さなどの変化の傾向を表しています。丸顔は、神奈川の大地の変化を示しています。丸の上側にある緑色の部分は陸地で、下側の水色は海です。この企画展では「かながわくん」と呼んでいます。

気温の高い時期、かながわくんも暑がっています。この時期では、下側にある海の部分が増えています。寒い時期、かながわくんは震えています。暖かい時期に比べると海が狭くなっています。

矢印の変化にも注目してください。暖かくなる変化は急激に進み、逆に寒くなる変化はゆっくり進みます。神奈川では、一万年前から六千年前にかけての縄文海進期に、海面が一気に、およそ四十メートルも上昇したことが分かっています。おそらく、暖かくなると、さらにその暖かくなることを助ける仕組み(正のフィードバック)が働くのでしょう。

またこの矢印は、大気中の二酸化炭素CO2濃度の変化も示しています。赤い点線は、産業革命以前の過去数十万年間での南極での濃度の最高値(約二八〇ppm)です。現在は、この濃度を超えてしまっています。

これは何を意味するのでしょうか?CO2などの温室効果ガスの濃度は、気候の変動に大きな影響を与えるといいます。気候変化のリズムからみれば寒くなっていくはずの気候。逆に暖かくなってしまうのでしょうか?


県立生命の星・地球博物館学芸員・新井田 秀一
※ 2005年2月1日に、神奈川新聞に掲載された記事を再録しました。