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ユニバーサル・ミュージアムをめざして―視覚障害者と博物館― ―生命の星・地球博物館開館三周年記念論集―』181-184ページ

五感で楽しめる博物館を

瀬川三枝子
(財)日本自然保護協会自然観察指導員

同じ大きさの立方体の木が幾つも並んでいます。大型の木製積み木のような感じです。片っ端から持ち上げてみると、全て重さがちがいました。木といっても、種類によって重さも固さもちがうのだということがよくわかりました。

これは、1990年5月に旅した屋久島で訪ねた、上屋久町立屋久杉自然館の展示の一つです。博物館は見るものだと思っていた私にとって、これは目から鱗が落ちるような発想の転換でした。目の不自由な私にも、博物館が少し身近なものとなった感じがしました。

同じ博物館であっても、来館者の目的は皆ちがいます。興味や関心、そして拘りが来館者の数だけあるからです。発するメッセージは一つでも、受けとめられるメッセージは幾つにもなるのです。自由な発想と柔軟な運営がなされていればいるほど、来館者もまた自由になれるのだと思います。目が不自由であっても、博物館から発せられるメッセージや情報をキャッチしたいという気持ちは、誰とも変わらないものです。

博物館といっても、美術館から水族館まで種類は様々なので、ここでは自然系博物館のことについて私の考えを述べてみたいと思います。

自然系博物館や、自然公園等にあるビジターセンターでは、展示だけでなくフィールドでの体験の場を提供しています。探鳥会や自然観察がその代表といえるでしょう。触れる展示物を増やすだけでなく、催し物にも参加することができたら、どんなにすばらしいことでしょう。そこで、体の不自由な人も参加できる自然観察会について述べてみたいと思います。

自然保護の推進のために、自然観察会を広めている財団法人日本自然保護協会では、1988年以来「ネイチュア・フィーリング自然観察会」を提唱し、その普及につとめています。これは、五感をつかい体の不自由な人と共に自然を楽しむというものです。

観察会というと見ることだと考えがちです。しかし、自然はいろいろなものを私達に伝え、それは五感を総動員しても余りあるものといえます。風を聴く、鳥の声に耳を傾ける、木をゆっくり触りぬくもりを味わう、葉っぱを擦って匂いを嗅いでみる、足のうらに気持ちを移して土の豊かさを感じてみる、木の実を食べてみる、まだまだあるでしょう。目の見える人は、触るということをほとんど思いつかないようですが、触るということは目の不自由な人だけが営む行為ではありません。見える人も見えない人も同じものを一緒に触り、感じたことをその場で言葉にし、共有することができたら、とても充実した観察会になるでしょう。

目の不自由な人に、色や触ることが不可能なものを説明したり、耳の不自由な人に、虫の声や風に揺れる木々や笹の音を説明したりすることで、思いがけない発見があるかもしれません。車椅子に乗っている人と語りあうためにしゃがんだら、森の落とし物に出会えるかもしれません。「ネイチュア・フィーリング自然観察会」はそんな観察会なのです。

ところで、博物館が行なう観察会には、必ずといっていいほどテーマがあります。子どもとか親子とか対象を決めて行なうものもあります。博物館の敷地内をフィールドとするものもあるでしょうし、別の場所を会場に行なうこともあるでしょう。見ることが主となるものもあれば、足場があまり良くない場所があるかもしれません。体の不自由な人の参加を考慮すると、企画の範囲が狭められてしまうのではないかという危惧を感じるかもしれません。

しかし、必要以上の心配をすることはありません。不自由が有るなしにかかわらず、参加する人達は自分の興味や体力と相談して決めているはずです。大切なことは、体の不自由な人達も博物館にやってくるということを忘れないことです。

体の不自由な人達は、中身が多過ぎて時間がなかったり、説明ばかりが多かったりする観察会はとても苦手です。ただそこに2時間居ただけだったという思いだけしか残らないことにもなりかねません。ゆっくり時間をかけて観察したり、丁寧に説明できる観察会を実現する一つの手段として、対象者を「体の不自由な人」とする方法もあるでしょう。企画の手始めとしては有効と思われます。けれども、体の不自由な人達をそういう人達だけでまとめてしまうのは、自然なことではありません。色々な企画に参加したいと思っていても、それらからは排除されてしまうのではないかという心配もしてしまいます。なによりも、好きな企画を選べることが大切なのです。

さて、体の不自由な人とそうでない人が共に楽しむことができるものを一生懸命企画しても、参加者はいるだろうかという心配があるのではないでしょうか。内容がすばらしいものであっても、黙って待っているだけでは心配が現実のものとなる可能性は充分に考えられます。博物館は社会教育施設の一つですから、誰でも利用することができるわけですが、体の不自由な人達はその「誰でも」の中に自分達が含まれているなどと思いもつかないのです。「一般市民」とか「どなたでも」という言葉に誘われて申し込んでも、いつも断られてきたという苦い経験をしている人達も沢山います。もう傷つきたくないのです。

そこで、企画の案内をする時に少し工夫をしてみたらどうでしょう。例えば「誘導、車椅子の介助、手話通訳を希望する場合は、気軽にその旨を伝えて欲しい」と書き添えるのです。「体の不自由な人も参加できる」という言い方より、一緒に楽しみたいという企画者の気持ちがさり気なく伝えられ、申し込む側にとっても勇気を出さなくても大丈夫だという安心感がもてます。

誰が来ても受け入れるという姿勢があれば、観察会全てを体の不自由な人に「合わせる」必要はありません。色々な場面展開の中で、言葉で補ったり、模型を使ったりという対応があってもよいでしょう。そして、何か一つ心に残るものを体験できたら、参加して良かったときっと思えると思います。これは参加者全てに共通のことです。お土産は一つで充分なのです。

「ネイチュア・フィーリング自然観察会」は、五感をつかってじっくりゆっくり観察することが基本です。そしてこのことは、自然観察全てに共通するものです。博物館の展示物もゆっくり時間をかけて触ることができたら、もっと楽しく身近な存在になるでしょう。

1997年8月、滋賀県立琵琶湖博物館を訪ねる機会に恵まれました。プランクトンのかっこうをした光が泳いでいる展示室がありました。見えない私は光を体験することができません。ところがそこにはじつにおもしろい物がありました。

実物大の琵琶鮎と、1000倍に拡大したプランクトンのプラスチック模型が壁にくっついているのです。貴賓すら感じさせる10センチほどの美しい鮎の体、1000倍に拡大しても米粒より小さなプランクトン。鮎とプランクトンが隣どおしでいるところに大きな意味があって、感動的な発見となったのでした。

開かれた博物館は、そこで働く学芸員の方々の豊かで柔軟な発想に支えられて実現するものだと思います。先にふれた琵琶鮎とプランクトンの模型も、見える人達も驚いていました。(ただし、どれだけの人が触っているかはわかりません。)同じ物を、ある人は触ることによって、ある人は見ることによって、1000分の1の無限の小ささを想像することを共有できるのもとてもすばらしいことです。

一つのものを色々な角度や、様々な方法で観察したり味わったりするという姿勢があれば、自分のもてるあらゆる感覚を目覚めさせて、こころゆくまで楽しむことができるでしょう。

[目次]視覚障害者と展示

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